不快な人間関係は排除されるのが前提の未来 哲学者・萱野稔人氏が語る価値観の変化

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭に置き、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

公共哲学の視座から見て、日本の社会、個人はどう変容していくのでしょうか。政治哲学、社会理論を専門とする哲学者の萱野稔人氏に、社会のあり方や課題、人々のライフスタイルや価値観などに関して伺いました。

萱野稔人(Toshihito Kayano)
哲学者。津田塾大学総合政策学部長・教授。
1970年、愛知県生まれ。専攻は政治哲学、社会理論。早稲田大学卒業後に渡仏し、2003年にパリ第十大学大学院哲学科博士課程を修了。哲学に軸足を置きながら、現代社会の問題を幅広く論じている。著書に『国家とはなにか』『権力の読みかた―状況と理論』『新・現代思想講義―ナショナリズムは悪なのか』『暴力と富と資本主義 なぜ国家はグローバル化が進んでも消滅しないのか』などがある。

「場所」の重要性が減り、テクノロジーに置き換わっていく

――AIなどのテクノロジーは目覚ましく発展しています。テクノロジーによる、これから社会変化についてどのような関心をお持ちでしょうか?

最近は、テクノロジーの変化で「処罰」がどう変わっていくかについて考えています。特に未成年者への性犯罪加害者は何度も繰り返すケースが多い。刑務所で更正プログラムが実施されていますが、依然として再犯率が高いのです。

そこでアメリカや韓国で導入されているのが、性犯罪の累犯者に出所後もGPSをつけて行動記録をとる方法。GPSをつけていれば犯罪抑止率が高くなるそうです。

これによって起きた一番大きな変化は、加害者の処罰が場所に限定されなくなること。刑務所に閉じ込めたり、内面に働きかけて犯罪を抑制する更正プログラムを行ったりする必要がなくなるので、コストパフォーマンスが高くなる可能性があります。

――さまざまな場面で、場所に限定されなくなる動きが進みそうですね?

子どもを学校に集めて教育したり、患者を病院で治療をしたり、労働者を工場に集めたり、今までは生産性を向上させるにはどうしたらいいかを、ずっと考えてきました。これが広い意味で20世紀のテクノロジーだとすれば、今後は場所に集まる、集めることの重要性が少しずつ下がり、場所に限定されずに人々へ処遇をすることが進んでいくのではないでしょうか。

例えば、犯罪者をGPSで管理できるようになれば、最初の1年だけ刑務所に入ってもらい、残り10年は監視装置をつけることも可能になります。もちろん日本では、受刑者にGPS装置をつけることに対してはまだ嫌悪感があるでしょう。しかし、権利や政治に対する意識は世代的な違いが大きい。ある一定の時期になると、抵抗感のない世代が社会全体の意思決定の中心になり、一気に変わっていくはずです。

――こうした価値観や公共サービスの変容は、国家や企業、誰が推し進めていくのでしょうか?

基本的には民間主導です。現在も大きな事件・事故が起きると、警察はまず周囲の防犯カメラの記録をチェックします。日本では街の至る所に映像記録装置が設置されていますが、これらはほとんど民間のもの。警察も民間に頼っているのです。

行動記録をとるテクノロジーでは、『Miles』というアプリが流行りそうですね。これは自分の移動ログを提供することによって、何らかのサービスやポイントを受けられるアプリです。政府がこれをやるのは難しいでしょう。行動ログを渡してもいいと思われるほど、政府は信頼されていません。

一方で、民間がやるとあまり批判が出ません。「移動するほどポイントがもらえるなんて面白い!」とメリットが強調され、多くの人がゲーム感覚で取り組む。それによって、人々が行動ログを残すことへの心理的なハードルはかなり下がるはずです。日本の場合、こういった推進力は民間じゃないと進まないと思います。

健康志向がさらに加速し、人々の行動や消費の傾向に変化が生じる

――2040年には、20~64歳人口が全人口の半分ぐらいにまで減少するそうです。そうなったとき、社会的資源の分配に変化は起きるのでしょうか?

政府の見通しでは、2042年に高齢者の数がピークを迎えます。団塊の世代が全員高齢者になると、高齢者の数はそれ以上増えません。その後は、亡くなる人の方が増えるので、数としては減っていく。20年後にやっと日本社会の高齢者数の増加は止まるのです。

これは、私たちが考える以上に大きな転換点になると思います。この先20年は絶対数として高齢者の数が増えるので、社会保障にしても選挙にしても、高齢者の増加に対応しなければいけません。ですが、2040年になれば、その状況があと1~2年で終わるので、もうしなくていいという話になってきますから。

――転換点を迎えると、何が変わるのでしょうか?

健康志向がさらに高まっていくのではないかと考えます。政府も健康寿命を延ばすことに必死になっていますし、20年後は年金受給開始年齢が65歳よりもっと上になる可能性が高いので、覚悟しておいた方がいいでしょう。そうなると、より健康で、仕事ができる体でいなければいけません。

その兆候の一つとして、この数年で24時間営業の小規模なスポーツジムが一気に増えました。若者は、プールやエアロビクス教室もある大きなジムには見向きもしなくなった。小さなジムの方が設備の維持費もかかりませんし、いろんなところにたくさん作れるのでジム側もニーズの掘り起こしができる。近くにできたら行ってみようと考える人も増えたのです。

健康志向の高まりは個人の生き方の根本的な姿勢を作っているので、人々の行動や消費の傾向などが変わってくるだろうと思います。

――健康志向が強まれば強まるほど、見えないところで健康格差が生まれてくるのではないかと思います。それに対して、政府やマスメディアは積極的に対応・対策すると思いますか?

政府は健康格差に関して、何らかの対策をせざるを得なくなってくると思います。社会保障の負担をなるべく減らす場合、健康な人をさらに健康にするよりは、不健康な人を少し健康にする、要するに底上げをする方が効率的ですからね。

ただ、民間からは格差是正の話は出てこないと思います。民間は、健康志向の高い人に商品やサービスを売った方が売れますし、そういう人たちがお金を持っているとなれば、余計にそちらに重心がいくからです。

近年、テレビで健康番組が増え、出演者もどんどん高齢化しています。高齢者になっても溌剌としている健康的な姿がメディアを通じて見せられていくことによって、社会全体の健康意識の高まりに繋がる可能性はありえるでしょう。民間も積極的に格差是正を謳うことはないとしても、健康的な方がいいというイメージはどんどん広がっていくと思います。

従来のままマスメディアがネットの世界に進出していくのは難しい!?

――公というもの・公共空間を支えるメディアやプラットフォームのあり方はどうなっていくと考えますか?

その文脈で、興味深い事例があります。ネットに誹謗中傷を書き込んでいる人は、実は1~2人のようなごく少数しかいなかったという研究です。実際の数よりも誹謗中傷が多く見える理由は、テレビが取り上げるからだ、と。報道されることで「そんなに誹謗中傷があるんだ」と、同調する人も多く出てくる。マスメディアが報道しなければ、炎上はもっと小さくて済むという議論もあるようです。

ネット以外にも、マスメディアのように大きなプラットフォームを見ながら皆さんは情報収集をしています。だから、今後も従来のマスメディアの役割は失われていかないのでは、と考えています。

――まだマスメディアの力が強いとはいえ、アメリカなどを見ていると、特にニュース、ジャーナリズムの分野を維持・経営していくことに苦労しているようですが、そのあたりはどう考えられますか?

新聞の全国紙5紙が維持されていくか疑問視する方もいるように、ネットが生まれたことで、あらゆる情報が世の中に溢れ、「お金を払わなくても無料で情報は全部見られるのに」という時代になってしまいました。

メディアにもプラットフォーム形成力はありますが、経営的にうまくいくかどうかは、あまり楽観視できないでしょう。

――テレビはどうでしょうか? コンテンツを作っていく力は残るという考え方もあれば、ネットに組み込まれていくのではないかという話もあります。

コンテンツ以前に、テレビとネットの視聴形態はだいぶ違います。テレビは大きい画面の前にゴロンと寝そべって見る、非常に受動的なメディアです。一方、ネットで動画を探すときは能動的です。YouTubeで面白い動画を探すときも、無限にあるコンテンツの中から自分が気に入ったものを探していくので、非常に能動性が高く、せいぜい10分程度しか見ない。テレビを1時間見ていられるのは、受動的だからです。受動的だからこそ、数千万単位の視聴者に届けられるマスメディアの論理が、そのままネットで通用するとは思えません。

今でもテレビのコンテンツ制作力は抜きん出ていると思います。しかし、ネットはあまりにチャンネル、コンテンツが多すぎる。その環境の中で、今のような大がかりな組織でコンテンツを作るのは合っていません。Netflixが大がかりなドラマを作っているからいけるのではないかという意見もありますが、懐疑的に見ています。

より居心地のいい空間をバーチャルに求めるように

――話は少し変わりますが、バーチャルやメタバースの世界も注目されています。今後、その中で楽しむ方向にいくのか、それとも現実から逃避する感じになるのか。どうなっていくと考えますか?

いわゆるキャラの使い分けは、SNSが広がり始めた早い時期から若い人たちはやっていて、新しい現象ではありませんよね。例えば、オタク的な趣味アカウントはこれ、メンタルの暗い部分を出すアカウントはこれ……と使い分けています。

その点、生身の人間は居場所を変えてキャラを完全に変えるのは非常に難しい。身体の居場所はそんなに多くないからです。大人になると会社と家庭、子どもでも学校と家庭と、せいぜい塾や習い事。バーチャルに逃げるというよりも、解放の側面が強いと感じます。

――バーチャル空間の中でキャラを使い分けることで、リアルはなくてもいいという感覚になるのか、リアルはリアルで残るのか。このあたりはどうお考えですか?

リアルな人間関係や居場所は、より選別されていくのではないかと考えています。バーチャルで複数のキャラやアイデンティティ、居場所を確立できるようになると、リアルで快適な居場所を獲得する必要性はどんどん下がっていきますから。

多くの人にとって、リアルが全く必要なくなるとは思いませんが、重要度はやはり下がるでしょう。居心地がよくないのに無理にこだわるのは減っていくはず。これはすでにコロナ禍で顕在化しました。人となかなか会えなくなり、誰と会うかを選別するようになりました。今後も、この動きは加速していきます。

――居心地のよくない人間関係、居場所はより淘汰されていくのですね?

平成を振り返ると、不快なものを不快だと名指して、避ける傾向が非常に強まりました。その象徴として、ハラスメントという言葉の定着があります。ハラスメントという言葉は、平成になってセクハラから始まり、パワハラ、◯◯ハラと増殖していったのです。

それまではもっと同調圧力が強く、不快だと思っていても言葉にする人が少なかった。それがハラスメントという言葉を通じてどんどん顕在化されてきました。例えば、会社の飲み会も減っていますし、我々年長世代としてもあまり気軽に誘えない状況になっています。これも人間関係の選別で、「その時間があったら、私たちはもっと自分の好きなことをやりたいです」と言われてしまう。不快な人間関係や場所に対して、人々の忌避感は今後も強まっていくと思います。

不快な人間関係を排除していく圧力は、私たちが考えている以上に強力で、今後の20年を考える上でも前提とすべきトレンドです。現実の居場所が淘汰されていく分、居心地のいい空間をバーチャル上に求める。それが、メタバースのような形でどんどん発展していけば、そこと響き合う関係はできてくるでしょう。


2021年11月29日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基
編集協力:矢内あや+有限会社ノオト

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