新しいものは「暇」と「多様性」と「危機感」から生まれる 予防医学研究者・石川善樹氏が50~70代前半の「白秋世代」に期待する理由

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭におき、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

近年、「well-being(ウェルビーイング)」というキーワードをよく聞きます。一般的には「よい状態」と説明されていますが、やや掴みどころのない概念ともいえます。well-beingとは、具体的にどういうものなのでしょうか? また、「自分らしさ」とは? 働くことの意味や意識の変化などについて、予防医学研究者で医学博士の石川善樹さんに話を伺いました。

石川 善樹(Yoshiki Ishikawa)
予防医学研究者、医学博士
1981年、広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。公益財団法人 Well-being for Planet Earth 代表理事。「人がよく生きる(Good Life)とは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。専門分野は、予防医学、行動科学、計算創造学、概念進化論など。著書に、『問い続ける力』(ちくま新書)、『フルライフ』(ニューズピックス)、『むかしむかしあるところにウェルビーイングがありました』(KADOKAWA)などがある。

well-beingには、文化や世代を超えた共通点がある

――石川さんは長年にわたりwell-being(よい状態)について研究されています。改めて、well-beingとはどのようなものなのか、教えてください。

まず大前提として、well-beingは物理的な存在があるわけではありません。「水」や「森」などと違って、人間が作り出した妄想でしかない。したがって、well-beingのかたちは定義しようがないのです。日本的なwell-beingもあれば、アメリカ的なwell-beingもある。極端にいえば、「well-beingなんてない」ということさえできます。

では、なぜこんなに注目されているのか? それは、well-beingのかたちは多様であるにもかかわらず、その要因には共通点がとても多いからです。文化や世代を超えた共通要因があるならば、そこに働きかけることで多様なwell-beingにアプローチできるのではないか。多くの人が、そう考えはじめたのです。

――共通点とは、具体的にどういうものでしょうか?

具体的には、「経済成長」「民主化しているか」「ダイバーシティ&インクルージョンであるか」「選択肢があって自己決定できる社会かどうか」「自然が近いか」などが挙げられます。

もう少し身近な個人的要因でいうと、「友だちがいるかどうか」「学歴が高いか、低いか」「収入が多いか、少ないか」「幸せなパートナーシップがあるか」「居場所がたくさんあるか」など。一般的に想起される、幸せの要因ですね。

ただし、これらの要因は明確に決まっているわけではなく、本人が「この状態がwell-beingだ」と思えれば何でもいいのです。例えば、サウナに入っているときがwell-beingだと感じる人もいる一方で、サウナが嫌いな人もいるでしょう。

また、well-beingは時代によって変わっていきます。先ほど経済成長を要因の一つとして挙げましたが、今後もwell-beingの要因になり続けるかどうかは分かりません。

首尾一貫した「自分らしさ」は疲れる

――well-beingに関連して「自分らしさ」もよく聞くキーワードです。自分らしさとは、どういうものなのでしょうか?

日本文化のルーツである「うた」を紐解いていくと、サロンやコミュニティを指す「連」とペンネームを指す「号」という概念が出てきます。例えば、俳句を詠む「連」に入るとき、江戸時代の人たちはそれぞれ「号」を付けていました。しかも、「連」ごとに「号」を変えていました。

分かりやすくいえば、人格を変えたのです。どういう人が参加しているかによって「号」、つまり自分の役割を変えていたのでしょう。たんに集まって酒を飲むだけの「連」もあったくらい、カジュアルなものだったようです。江戸時代の人々は生涯に複数個の「号」を持ち、いくつもの「連」を渡り歩いて人生を楽しんでいたそうです。

現代は、自分と向き合う時間がどんどん増えています。テレビ会議をする際は、あまり見たくない自分の顔をずっと見なくてはいけません。SNSであれば、自分の投稿に対してどんな反応があるか気になる。そんなふうに自分と向き合う時間が増えすぎてしまって、疲れています。だから別のアカウント、いわゆる裏アカをたくさん持つようになるのです。そこで「どれが本当の自分なのか?」と聞かれても、答えられないでしょう。

東洋哲学的にいえば「首尾一貫した自分らしさは、疲れませんか?」ということ。コミュニティごとに、別の顔でいい。一貫性がなくてもいい。そうなると、中心がどんどんなくなっていくはずです。「違う自分がいる」というのが「自分らしい」ということだと定義してもいいかもしれません。「自分がないのが自分らしい」ということです。

――今後サイバー空間にも居場所がどんどん増えるとすると、「自分らしさ」はどう変化すると思われますか?

例えば、職場にいる自分と、ネット上で「いいね」を押すときの自分、家庭での自分とで人格は違うはずです。結局、居場所がたくさんある状態に慣れるかどうか、ではないでしょうか。

居場所を多く持っている人もいれば、一つしか居場所がない人もいる。頻繁に移動している人は、居場所をたくさん作りやすい。それはリアルでもサイバー空間でも同じでしょう。

砂場でトンネルを作っている子どもは、働いているのか?

――「AIが生産性を上げて経済的価値を高めれば、人間はそんなに働かなくても済むのではないか」という議論があります。今後、働くことの意味はどう変わっていくのでしょうか?

「砂場でトンネルを作っている子どもたちは、働いているのか?」という問いがあります。普通に考えれば「働いていない」になるでしょう。でも、砂場でトンネルを作っている様子をYouTubeにアップしてお金が得られるとしたら、「働いている」と言えるかもしれません。

働くことに関しては、2つの根源的な問いがあります。1つは、「なぜ、自分はこの仕事をするのか?」というパーパスにつながるような問いです。もう1つは「長い時間一緒にいる、この人は誰なのか?」という問いです。

現代の仕事は、1人で完結することがほとんどなく、誰かと一緒に作業します。でも一緒に働いている人の仕事ぶりは知っていても、人となりはまったく知らない、なんてこともよくある。よく考えると不自然ですよね。結局は、2つの問いに対して納得感がある答えを持てるかどうか、だと思います。

――一緒に仕事するパートナーを理解することが大きな要素になる、ということでしょうか?

仕事は、「なぜするのか?」という理屈的な側面と、「楽しいのか?」という感情的な側面があります。楽しんで仕事をしようと思えば、「何をやるか」より「誰とやるか」の持つ意味が大きくなります。有名人のオンラインサロンに入って活動をすることは、それに近いかもしれません。お互いに興味を持って、理解しあう。見ようによっては、お金を払って仕事していると言えるのではないでしょうか。

そう考えると「働くとは?」「仕事とは何か?」が、よく分からなくなってきていますよね。例えば、「あなたは何のために働いていますか?」と聞くと、「年1回、好きなアーティストのコンサートに行くために働いています」と答える女性がいました。その人は企業に勤めているのだけど、その会社のためではなくそのアーティストのために働いている。極端にいえば、彼女の本当のボスはアーティストなのかもしれません。

――今まではdoing、つまり仕事の内容にフォーカスしていたけど、これからはbeingの価値を見直すことが大切である、ということでしょうか?

昔は、子どもから大人まで「人となり」がバレている時代でした。そこからhuman doing、つまり何をしている人か、成果主義、JOBで判断されるようになった。それはちょっと辛いよね、となり、またhuman beingに揺り戻しが起きています。

「be」と「do」の行ったり来たりは、今後も起こりそうな気がします。2040年までに何往復するかは分かりませんが。

――そうなると、人生の目標や成功の意味合いも変わっていくかもしれません。世代ごとの興味・関心について、感じていることはありますか?

20代はどういうスキルを手に入れるかへの関心が強いですね。30/40代になるとキャリアプランに興味が移り、専門職か管理職か、違う業界へ行くべきかを考える。50/60代になるとライフプラン。70代になると次の世代の行く末に興味が出てきて、自分から離れていきます。今後も、会社の人事制度が大きく変わらない限り、スキルプラン、キャリアプラン、ライフプラン、次の世代プランという流れは、あまり変わらないでしょう。

エクストリームな人たちこそ、面白い

――昔は60歳で定年退職し、その後はあまり長生きしない前提で人生が考えられていました。しかし、100歳まで生きる可能性があるとすると、人々の考え方は変わってくるのではないでしょうか?

そこは、いまの50~70代前半である「白秋世代」がどう行動するか、によると思います。次の世代が真似をするか、反面教師にするかは分かりませんが。

人類の歴史を見ると、時代が大きく変わるには3つの条件が必要です。1つ目は「暇」、2つ目は「多様な考え方に触れていること」、3つ目は「危機感」。それらが揃ったところから、次の思想や哲学が出てきます。

――1つ目が「暇」というのは意外ですね。

やはり暇でないと考えないし、新しいことに取り組みません。働かなくていいし、時間がある。昭和の時代はそれがティーンエイジャーだったのですが、暇だから反抗する時間があるわけです。でも、今の若い人たちはあまり暇ではないです。習い事ばかりで、いろいろ忙しいです。個人的には、白秋世代から新しい何かが起こることを期待しています。一番暇な世代ですし、人生100年時代は多様ですよね、そして長生きへの危機感もあるわけです。

――石川さんが注目している中で、ロールモデルとなるような面白い人はいますか?

YouTubeを見ると、40~50代の人たちの動画が面白いです。世の中に対する愚痴を言いながら1人で酒を飲んでいる動画が、何十万回も再生されている。「生きるってなんだろう?」「働くってなんだろう?」と考えさせられます。

今メインストリームにいる人から出てくる考え方は、想像の範囲を超えません。いろいろな縛りや理屈の中でしか考えられないので。逆に、暇で、多様な考え方に触れていて、かつメインストリームの外にいる、エクストリームな人たちは本当に面白いですよ。新しい時代は、異なる文化圏の狭間から生まれてくるものですから。

2040年には、未来について考えるのをやめているかもしれない

――メディアへの意識について伺いますが、今後、メディアがよりパーソナライズされるとすると、フィルターバブルのような事象が頻繁に起こるのでしょうか?

強烈なガイドラインや規制をかけない限り、どんどん出てくるでしょう。そこはフィルターバブルが「起こるのか?」という議論より、「起こしたいのか?」という気持ちの問題です。「フィルターバブル許すまじ」であれば、予測するのではなく、実際の活動によって、そうした状況を作っていくべきものです。

そもそも人類の歴史でみると、未来に興味を持つようになったのは最近の現象です。日本人はずっと、昔を見ていました。昔が素晴らしくて、ヒントがあると考えていた。未来については、せいぜい「極楽浄土か、否か?」というくらいの話だったでしょう。

コンテンツとしては昔のほうがたくさんある。だから、そこにヒントがあるのでは?と考えるのは自然なことだと思います。2040年は「もう未来について考えるのはやめよう」「もっと過去の時代を参考にしようよ」という世界になっているかもしれません。

――変化が激しいからこそ、どうしていいか分からず未来を気にしている、ということでしょうか?

変化という点で言えば、今より昔のほうが激しかったのではないでしょうか。いつ自然災害が発生するか、いつ戦争が起こるか分からない。未来に対する不確実性は、昔のほうが圧倒的に高かったはずです。

ではなぜ、未来のことを気にする時代になったのか? それは20世紀に、不確実性の元凶だった貧困や病気、天候を(一定程度)克服したからです。新たな心配がなくなったため、些細なことを大げさに騒ぎ立てる時代になったといえるでしょう。

――2040年に向けて、メディアやコミュニケーションはどう変化すると思いますか? あるいは、どうなってほしいですか?

みんな、メディアやコミュニケーションをあまり気にしなくなるのではないでしょうか。例えば、いまポリオについて気にしている人は少ないですよね。物事はすごく馴染んだら、気にする必要がなくなる。だから、メディアやコミュニケーションについて考えるのをやめて、もっと他の根本的なことを気にする環境になったら面白いかなと思います。

ただ、果たして僕が時代の中心に近いところにいる人間なので、2040年について有用な話ができるだろうか?という疑問があります。先ほど言ったように、いつの時代も新しいものは辺境から生まれます。40~50代の無職の人に「メディアやコミュニケーションは今後どうなると思いますか?」と聞いたほうが、面白い答えが出てくるのではないでしょうか。


2022年1月19日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基
編集協力:村中貴士+有限会社ノオト

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