デジタルツインと共に「われわれで決める」 哲学者・出口康夫氏が予測する意思決定のカタチ

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭におき、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

リアル空間にあるモノをデジタル空間に再現する「デジタルツイン」という考え方。IoTやAIの台頭により、今後ますます浸透していくと考えられています。「デジタルツイン」の登場で、人々の価値観はどう変化していくのでしょうか? 哲学者・出口康夫氏に、未来におけるデジタルツインのあり方と、人間の身体や心の居場所について話を伺いました。

出口康夫(Yasuo Deguchi)
哲学者
1962年、大阪市生まれ。京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士後期課程修了。確率論・統計学の哲学、科学的実在論、シミュレーション科学・カオス研究の哲学、カントの数学論、スコーレムの数学思想、分析アジア哲学など研究分野は多岐に渡る。京都大学人社未来形発信ユニット長としてオンライン講義シリーズ「立ち止まって、考える」を主導すると共に、NTTや日立製作所との産学連携も行ってきた。近著に『What Can’t Be Said: Paradox and Contradiction in East Asian Thoughts』(Oxford UP 2021、共著)。

「生きる主体が「私」から「われわれ」に、「WE ターン」の世界へ

――デジタル空間とリアル空間が共存していく社会において、自分のあり方はどうなっていくと考えられますか?

現在、私は「自己(Self)」を一人称単数の「私(I)」から複数の「われわれ(WE)」へとシフトさせるという「WE ターン」という観点から、デジタルツインに関する共同研究を進めています。

そもそも「自己」とは、行為の主体、生きる主体です。それはまた、我々が共同体や社会を作っていく中でも、基礎となる概念でもあります。そのような重要な概念が「私」から「われわれ」に変わる「WE ターン」は、他の様々な重要な概念の「WEターン」を連鎖的に引き起こし、最終的には社会全体の「Weターン」へとつながっていきます。

例えば、最近あちこちで「Well-being(ウェルビーイング・幸福)」という言葉が語られています。ウェルビーイングとは何か、幸福とは何かについては様々な見方がありますが、「幸せな人生」「不幸な人生」という表現があるように、それが「人生」が持つ性質でもあることには多く人が同意していると思われます。

いま人生を、人が一生を通じて行う一つの大きな行為だとすると、行為の主体が「われわれ」になった以上、「幸福」の主語も「I」から「We」にシフトすることになります。「My Well-being」ではなく、「Our Well-being」になるわけです。

同じように責任や権利の所在も「I」から「We」へと「WE ターン」する。このような流れで、「WE ターン」は社会のラジカルな再設計へと繋がっていくことになります。

――今後、メタバースのようなバーチャル空間が浸透することで、リアルな生活が置き換えられていくと考える人も多いですが、この意見についてどう感じていますか?

バーチャル空間がリアルな空間を補ったり、強化したり、代替したりするケースは、これからますます増えると思いますし、歓迎すべき点があることも確かです。しかし、そもそもバーチャルな世界は、リアルな世界の人的・物的リソースがないと存在することすらできません。

他方、リアルはバーチャルなしにも厳然と存在しています。我々も同じです。我々は、どこまでいっても、リアルな世界に根を張って、そこからバーチャルな世界に枝を延ばしている存在でしかないのです。その意味で、まず優先すべきは我々の根っ子である「リアル世界」「リアル社会」なのです。

先ほどもお話ししたように、我々はリアル世界で「われわれ」として生きています。我々は、単独の「原子」として生きているのではなく、つねに多数の「原子」が結びついた「分子」として生活しているのです。

ところが、そのような「われわれ」が、バーチャルな世界の入口であるインターネット端末では、基本的に個人化されてしまいます。「分子」状態にあったものが、入口で「原子化」されて、一旦バラバラにならないとバーチャルな世界に入っていけない仕組みになっているのです。

結果として、我々はバーチャル空間で、リアル世界では得られなかった「個」の自由を満喫できていますが、同時に「分子」としてしか生きていけないリアルな現実のあり方を見失う危険にも陥っていると思います。インターネット端末の個人性は、リアルそしてバーチャルな社会における人々の「絆」を希薄化してしまう構造的な問題を抱えているのです。

このような危険性を可視化、前景化した上で、いかにしてリアルとバーチャルな「われわれ(WE)」の復元力を蓄え、それを再活性化させるかが、いま問われていると思います。

いろいろな「WE」に支えられて生きていく

――デジタルツインの台頭によって、個人レベルの意思決定基準はどうなっていくと思われますか?

近代社会では、いろいろな情報や他人の意見を踏まえた上で、自分にとって重要な事柄は自分一人で決めること、自己決定を行うことがあるべき姿だとされてきました。決定権を一人で「専有」すること、「専決者」であることが良いことだとされてきたのです。

ですが、「WE ターン」の観点から言えば、このような「専決」は幻想でしかありません。全ての決定は、多くの人々が、単なる「影響者」ではなく「共決定者」として関わる「共同決定」なのです。決定の主体は「私」ではなく「われわれ」です。その中で「わたし」は決定の最後のボタンを押す「最終決定者」の役割を演じているにすぎません。このように意思決定も「WE ターン」されるべきなのです。

同じことはデジタルツインについても言えます。デジタルツインは単に情報を仕入れて、「わたし」の意思決定を支援する存在にとどまりません。それは、「われわれ」のメンバーとして、最終決定者としての「わたし」と一緒に意思決定を行う「共決定者」の一員なのです。

今後、生前の人の姿や記憶を保存することで、故人をデジタルツインとして再生する流れが起こるかもしれません。その場合、デジタルツインとなったパートナーとの不断の会話を通じて、2人で一緒に物事を決めて生きていく。そのような形で、故人と共に「われわれ」として生きていくことも可能になるかもしれません。

――そうすると「アバターがやりました」「デジタルツインがやりました」といっても、責任は自分に返ってくるということでしょうか?

「WE ターン」の観点から言えば、責任の単位も「私」ではなくて「われわれ」です。逆に言うと、「私」は自分が属している「われわれ」の他のメンバーが行った行為の責任から逃れることができません。メタバースの世界でのアバターの振る舞いに、自分は関係ないとは言えないのです。

もちろん「われわれ」のすべてのメンバーが同じだけ責任を負うというのは悪しき連帯責任です。まずは何らかの行為をした身体――これにはリアルな身体もバーチャルな身体も含まれますがーーの所有者が、最大の責任を負わなければならないことは言うまでもありません。

「WE ターン」が起こったとしても、身体の所有者は「わたし」のままなのです。一方、例えば見ず知らずの他人が何らかの罪を犯してしまった場合でも、その人が同じ社会に生きている「われわれ」の一員である以上、「わたし」も、そのような犯罪が起こらないよう――例えば、貧困をなくすといった仕方で――社会を変える努力をする市民的な責任から逃れられないのです。

私たちの居場所はどこまでいっても「リアル」

――メタバースの中でリアル生活と違う名前を名乗る人も出てくると思いますが、アイデンティティのあり方すらもリアル生活と異なっていくのでしょうか?

メタバース内では、いろいろなアバターを使い分けることで、アイデンティティが分散し多数化するという事態が起こりえます。でも、同じような現象は、ITが出現する以前から様々な仕方で現実に行われていました。例えば、一人の人が、参加するコミュニティごとに異なったニックネームやハンドルネームを使い分けることで、多様なアイデンティティを生きるということは昔から行われていたのです。

ただし、それらのアイデンティティは互いに全くバラバラで無関係であるわけではありません。それらは最終的にリアルな一個の身体によって束ねられていたのです。アバターも同様です。多数のアバターを束ねるのは、そのアバターを操るリアルな人間の身体なのです。

先に触れたように、リアルな身体を持たない故人のデジタルツインが登場する可能性もあります。その場合でも、故人がリアルな身体を持ってかつて存在していたという事実は揺るぎません。また例えば、ボーカロイドのように、最初からリアルな身体を持たないバーチャルな存在もすでに登場し、社会に受け入れられています。

でも、幸か不幸か人工物ではない我々は、まず最初はリアルな身体から出立するしかないのです。メタバースがいかに普及し、我々がそこにいかにどっぷりと浸かろうとも、我々の本籍地・出発点・原点がリアルな身体であることには変わりないのです。

――例えば、身体が自由に動かなくなってしまった高齢者が、デジタル上で若い仮想の肉体を持ち、幸せな生活を送る……などは可能なのでしょうか?

何らかの事情でリアルな身体を動かせない人たちの活躍の場を広げるために、デジタルツインやロボットといった人工物はどんどん活用されるべきだと思います。

ただ、若い健常な身体を持った人でも不幸な人はたくさんいます。身体は若返ったものの、上で述べた「デジタルな原子化」によって、みんながバラバラになってしまった社会は、幸せな社会ではないかもしれません。それは「不老長寿ディストピア」かもしれないのです。

本当の幸せを手にいれるためには、やはりリアルとバーチャルにまたがった「われわれ」を活性化し、よりよいものにするしかないのではないでしょうか。

――基本的に、人間の身体性である「リアル」が前提にならないと、人間は幸せにはならないということですね。逆に言えば「リアル」は、とても贅沢な存在になっていくのでしょうか?

そもそも我々が身体を持って生きているということ自体、実はとても贅沢なことだと思います。「わたし」が生きて行為をする限り、そのつど、多種多様なメンバーからなる「われわれ」が立ち上がり、「わたし」の行為を支えてくれているのです。

生態系を含めた社会環境がある程度整っていなければ、また、無数の人々、生き物、無生物からの支え「アフォード」が、つねにすでに、そこに存在していなければ我々は生きてはいけません。「わたし」は「われわれ」の一員としてしか生きていけないわけですが、それはたいそう恵まれたことでもあると思います。

――結局、私たちの居場所は未来においても「リアル」だということですが、メディアやコミュニケーションはどうあるべきだと思われますか?

メディアもコミュニケーションも、リアルな身体、そして身体が暮らしているリアルな現場を大事にして、それを取りこぼさないことが重要だと思います。現在のコミュニケーション技術では、どうしても情報は視覚と聴覚に限られ、身体感覚を含めたそれ以外の情報や感覚、ニュアンスは落ちてしまいます。

遠隔コミュニケーションも含め、情報技術に依存したコミュニケーションでは抜け落ちてしまう身体性を、暮らしの現場での対面コミュニケーションを通じて確保することが重要だと思います。

コミュニケーションにとって言葉が重要であることは言うまでもありませんが、言葉にとっての身体性とは、一つには身についた地域の言葉と言えるかと思います。地域ごと、場合によっては集落ごとに異なる、ローカルな言葉を守っていくことが重要だと感じます。

近代のマスメデイアの発展は、同時に、このようなローカルな言語の衰退の歴史でもありました。現在では、SNS等の浸透によって、マスメディアを迂回した情報発信が地域からダイレクトに可能になってきています。ITやICTを活用した、ローカル言語の維持や活性化も、今後、重視されるべき事柄ではないでしょうか。

不死にはなれないが、死の意味は変わっていく

――メタバースの世界が実現したとき、その中で暮らす人々の居場所や帰属意識はどうなっていくのでしょうか?

今後、寿命がどれだけ伸びたとしても、100歳をすぎれば身体がうまく働かなくなり、やがて死を迎えます。現在、身体や意識のサイボーグ化やバーチャル化で老化を防ぎ、寿命を延ばす様々な方法が語られています。

例えば、自らをメタバース内のアバターへと集約、還元し、リアルな身体が滅んだ後も、バーチャルなアバターとして生きていくという選択肢も可能となるかもしれません。では、このような技術によって「不老不死」が実現できるかというと、「不老」はある程度可能になっていくと思いますが、「不死」の実現は難しいのではないかと考えます。

大きな話をすれば、人類の絶滅の可能性や、地球や太陽系、さらには宇宙の寿命すら限られているではないかということもあります。より短いスパンで言えば、技術、特に巨大なシステムには、人間がいかに最善を尽くしたとしても、つねにエラーが生ずる可能性が排除できないという問題があります。

例えば、航空機の運航は非常に巨大なシステムに支えられています。使われている部品の数も膨大ですし、運行システムも非常に複雑です。それらについては、数多くの人員が入念に整備し、その安全性をチェックしています。その結果、実際に飛行機事故が起こる頻度は、普通の車の交通事故の頻度に比べても極めて低いとされています。

ですが、飛行機事故はどこかで起こっています。システムを入念に整備し安全性を高めることで事故の頻度を下げることはできますが、それをゼロにすることは、どれほど技術が進歩しても無理だと思います。これは、事故の頻度がどれだけ小さくなったとしても、長年のうちには、事故が起こることを意味します。

我々の意識がITシステム上で完全にバーチャル化され、寿命が伸びれば伸びるほど、必ず、いつかの時点で、システムのエラーによるバーチャル意識のデータ消滅が発生することになります。バーチャルな事故死は不可避なのです。

結局、意識のバーチャル化によって単に先延ばしされただけで、死はいつか必ず起こることに変わりはありません。現代の日本人の死因の上位はがんや心臓病が占めていますが、意識のバーチャル化が普及した未来では事故死が死因のトップとなるのです。事故死とは偶然の死です。ある日突然、偶然の死が必ず起こる。これがメタバースでの実存状況なのだろうと思います。


2022年1月11日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 小林舞花
編集協力:矢内あや+有限会社ノオト

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