メディアの役割や広告のあり方を考える時期がきた 関西学院大学教授・難波功士さんが予測する未来のメディア社会

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所では、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を踏まえ、2040年、あるいは、もっと早く訪れるであろう未来の姿を洞察すべく、各分野の有識者にインタビューを重ねています。 今回は、関西学院大学社会学部教授・難波功士さんにインタビュー。AIが発展した先に訪れるメディア社会の未来や、今後の広告やジャーナリズム、エンタテインメントビジネスのあり方などについて伺いました。

難波功士(Koji Namba)
1961年大阪市生まれ、1984年から1996年まで博報堂に在籍。1996年より関西学院大学社会学部教員となり、2006年より教授。現在「広告文化論」「ポピュラー・カルチャー論」といった講義を担当している。『社会学ウシジマくん』(人文書院、2013)、『就活の社会史』(祥伝社新書、2014)、『広告で社会学』(弘文堂、2018)ほか著書多数。

格差社会が広がり、新しいメディアを享受できない人が多くなることを危惧

――メディア環境研究所では、サイバー空間とフィジカル空間が融合することで社会自体が「メディア化」し、各個人に最適化されたパーソナルAIが出現するという未来の姿を考えています。難波さんは、どのように未来を捉えていますか?

確かにこのままいけばどんどんメディア化は進み、パーソナルAIも普及すると思いますが、その頃の社会がどうなっているのかは見えません。

アメリカでは富の集中が進み、格差が広がっています。日本も同様で、商工自営業は壊れていき、多くの人びとが企業に雇われなければいけなくなっています。正規雇用されない人は増え、パートで働かなければならず収入が伸びない。そのため、これまでの総中流社会はなくなっていくことは確かでしょう。時間とお金に余裕のある人が今まで以上に増えるとはあまり思えません。

こういった格差社会の問題もあり、お金のかかる新しいメディアの恩恵を享受できない人も実はたくさん出てくる、という見方もできます。この格差は、メディアに関する支出にも関わってくるでしょう。メディアを能動的に使わない人はどこにでもいますし、年齢が上がっていくほどその傾向は強くなっていく。みんなが共通のメディアを使う社会が来るというよりは、一部の人がメディアを使い始めてコストが下がった時点でどっと広がるのかもしれません。

もちろん方向性としてはこのままメディア化の流れは止まらないと思いますが、政治や国際情勢、自然災害などの影響を考えずに進んでいくかは疑問です。例えば、どんなメディアを動かすのにも電気の供給は必要なので、それが途絶えてしまったらどうするのでしょうか。

――格差社会の話がありましたが、お金以外の価値観で生活を楽しもうとしている人たちがいますよね。そういう人たちはお金がなくても幸せになれるのか、それともお金がないと幸せにはなれなくなってしまうのか。未来ではどうなっていると思いますか?

そういった資本主義社会に背を向けて自分たちだけで楽しく暮らしていけるコミュニティを作ろうとする思潮は、ずっと昔からあるんですよ。実際にそういう生活をした人もいますが、それが一般化するかと言われるとまだまだハードルが高いのではないでしょうか。若いうちは山奥でも暮らせますが、高齢化社会においては難しい。「最低限の暮らしができれば貯蓄をしなくて生きていけるよね」と思える人は少ないと思います。

業態を越えてモノづくりをすると面白いことが実現できる

――AIが進展することで、2040年の社会はどうなっていると思いますか?

AIの発達によって1日2時間働くだけでいい、空いた時間を自由に使える未来になる。そんな見方がありますが、個人的には難しいと思います。もし従来と同じ仕事が2時間でできるなら、8時間で今までの4倍の量の仕事をしてほしい、それでないと給料はキープできない、と考える企業も多いのではないでしょうか。

人口が減っていく日本では、いろんな仕事がAIに置き換わっても、結局は長時間できつい仕事をしながらそんなに給料も出ない世の中になると考えています。時間とお金に余裕がある人たちは、メディアの中で遊んだり暮らしたりする生活に移行して楽しむのかもしれませんが、それ以外の人たちはスマホで課金しない範囲で楽しむ。お金を注ぎ込めば楽しいのは分かっていても、そこまでしないという人も多いと思います。

――では、エンタテインメントビジネスのあり方はどうなっていくのでしょう?

コロナ禍で分かったのは、現地に行きたくても行けない人たちにとってネット上でも楽しめるのは一つの方法としてはありですし、楽しみ方は人によってさまざまなので徐々に普及はするでしょう。しかし、すべてのエンタテインメントをバーチャル上で完結させて楽しむ世界にはならないと思います。

技術的にメタバースの中にみんなが入っていく世界も10年後には実現できるもしれません。でも、最初は誰もが面白がってやったとしても、飽きてやめる人も出てくる。みんなが同じものを同じやり方で楽しむという状況自体、今後はどんどんなくなっていくと思います。

一定の人が盛り上がって、お金を払って支持をするエンタメのあり方は、さまざまなところで出てくるかもしれません。そのとき、ただ見ているだけではなく、自分が入り込める余地があるものを求める人はいるでしょう。

一方で、帰宅後は疲れているのにそんなややこしいことをしたくない、無料の範囲内で最低限楽しめればいい人も多い。なので、お金をかけずに試せて、そのあとにお金をかける一部の人だけが残るビジネスモデルは一般化しそうだなと思います。

――ちなみに、テレビについてはどう考えていますか?

個人的には、テレビ局の系列関係が変わり始めている気がしていて、さらに進めば今とは違う面白いことも起こるのではないかなと思っています。

たとえば、中国の動画プラットフォーム「bilibili(ビリビリ)」が在阪局へ出資して東京を舞台としたドラマ番組を作り、Amazonプライムに配信された事例がありました。さらに、その番組のフォーマットが中国に販売され、ローカライズされた番組が中国でヒットしたりもしました。いろんな業態を越えて繋がって、何かを作ろうとしたときに面白いことができる。これまでになかった新しい動きだな、と思いました。

また、Netflixや韓流ドラマのように膨大な制作費を使えるところがある一方、YouTubeではお笑い芸人が安価に30分で面白いコンテンツを作っている。ちょうどその狭間にいる日本の地方局は独自性のあるコンテンツ制作が難しくなってきています。予算が限られている地方局はYouTubeのやり方に寄っていくほうがチャンスはあるかもしれません。

これからの広告のあり方を考えていく時期が来ている

――広告を見る代わりに無料でコンテンツを利用できるビジネス業態について、難波さんはどう見ていますか?

人々はCMを、コンテンツが無料になるために必要なものと割り切っています。広告を見る時間を取られたり、コンテンツ視聴が中断したりするストレスと、得られる対価とのバランスを見ているのだと思います。

――AIによってレコメンドやターゲティング広告の精度が上がり、本当に自分の欲しいものや必要なものがタイミングよくオファーされる世界は望まれそうですか?

現時点で、すでに私たちの嗜好に合った商品を薦めてくれたり、履歴を参照しながらおすすめ動画をそれなりに教えてくれたりするので、今のAmazon、YouTubeのリコメンド機能で十分だと思います。

ただそれに頼っていることによって、新しいものを知らなくなったり、世界が広がらなくなったりしているのかもしれないですね。

一方で、こちらが求めている情報が配信されてくることに対して、なぜ自分の個人情報を知っているのかと嫌悪感を示す人たちは一定数いるでしょう。

――それでは、全体的に広告業界の将来はどうなっていくと思われますか?

1980年代、私が広告の世界に入った頃は、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌というマス4媒体中心の時代で、その限られた時間と空間の枠にはまるものが広告でした。形のある商品を売ることが主たる目的だった広告ですが、通信、金融、流通など形のないものを売ることが増えました。ブランディングに重きを置いたり、コンテンツと広告の境目がはっきりしなくなるなどの動きが顕著になってきています。

現在、すでにオーソドックスな昔の広告の概念は現実と対応しなくなってきており、もはや「広告」という言葉を使い続けること自体がどうなんだろう、と考えてしまいますね。広告会社自体が、自身を広告会社と謳わなくなってきていますよね。いずれは広告という概念や言葉が広報という概念や言葉に吸収されそうな気もします。

いつまでも広告にこだわっていても仕方がないので、広告に代わる次の言葉を考えたり、次の業態や領域を作っていったりしないといけない、と広告ビジネスを自らの出自と考えている企業や人々も考えていると思います。

マスコミは弱者の味方であってほしい

――難波さんは日々、大学で学生と接しています。今の学生の特徴をどう捉えていますか?

今の若い世代は、以前ほど何か一つのジャンルにのめり込んだり、強いこだわりを持ったりすることはないように感じます。ある程度、同世代の人たちが好むものを一通り抑えたら満足している印象です。

古いものをバカにすることもない一方、新しいものをどんどん吸収したり広げたりしようという貪欲さもないんですよね。

昔は情報が少なかった分、新しいものを知りたい、発掘したいというモチベーションがあったと思います。しかし、さまざまなものがアーカイブ化されて検索すれば何でも出てくる世界では、知っていることが自慢にもならないし、何かのコンテンツを一生懸命追いかけようという気にもなれないのかもしれません。

――SNSなどでアカウントを使い分ける「マルチアイデンティティ」についてはどう考えていますか?

マルチアイデンティティや多己化はすでに以前から存在していましたが、デバイスの普及やインフラの整備によって、お金の面でハードルが低くなり、一般的にもやりやすくなっていると感じます。それがビジネスにどう影響していくかは、正直まだ分かりません。

私の世代だと、アバターを作ってアバター同士で接触したり、「バーチャルYouTuber」を好きになったり、そういったことに感情移入できない方が多いと思います。でも、生まれながらにしてその環境にいる若い人たちにとっては、当たり前になっている。もちろんみんながそうはならないとは思いますが、人の感覚の変容は進んでいると思いますね。10年後には、一般の人も気軽に楽しめるようになるかもしれません。

――最後に、広告とは別の領域ではありますが、ジャーナリズムについても今後の見解を伺いたいです。

みんな、「報道機関がないと困る」と漠然と思っていても、やはりお金を払いたくないという気持ちがあるんですよね。今までは免許事業で公益性を持っている放送局が報道を担ってくれていましたが、もう保てなくなってきています。

ジャーナリズムだからアプリオリに価値があるということではなく、今後は報道内容やその報道機関の姿勢に価値を認める人たちが、その時々に投げ銭をする世界になっていくのかもしれません。ただ、そこまで物事を深く知らなくてもいいと思っている人は、YouTubeの切り抜き動画で済ませてしまうんですよね。

最近、報道各社がつくる「マスコミ倫理懇談会」に呼ばれて、勉強会をしました。そこで、ジャーナリスト出身の方が、「特に若い人たちや学生は『マスコミ』という言葉を聞くとネガティブな捉え方をしている」とおっしゃっていて。

つまり、ジャーナリスト側は「自分は弱い立場の味方になって強い存在に物申している」と考えている。しかし、若い人はマスコミやジャーナリストは人を叩く嫌な存在と思っているんです。個人的には、マスコミを好きになってほしいとまでは言わずとも、マスコミの存在は受け入れて、その報道内容が是々非々で判断される世界であってほしいですね。

スマホ一つで気軽に発信できる世の中になったことで、ジャーナリズムのあり方は変わっていくでしょう。隠したくても隠せないことが増えています。それは、われわれにとっても悪いことではありません。そうやって世の中に溢れている情報を上手にキュレーションして、ファクトチェックのうえ、確かな情報だけをまとめてくれたりするジャーナリストが出てきたらいいな、と思います。

2023年10月24日インタビュー実施 
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基 
編集協力:矢内あや+有限会社ノオト

※掲載している情報/見解、研究員や執筆者の所属/経歴/肩書などは掲載当時のものです。