東京大学稲見昌彦教授が目指す、「シン・右腕」が自分のやりたいことを無意識のうちに実現してくれる「人機一体」の未来
博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭に置き、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。
身体とはなにか。私とはなにか。身体の自在化をテーマに掲げ、あらゆる生理的知見や情報技術に基づいた「人機一体」システムの研究を行う東京大学先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授に、2040年における身体のあり方やアイデンティティの行方、メタバースとリアルの関係性などを伺いました。
人類はすでにサイボーグであるという説
――まずは自己紹介も兼ねまして、稲見さんが最近取り組んでいる研究テーマを教えていただけますか?
私は現在、「身体の自在化」を切り口にした研究を進めています。なぜ身体を自在化させる必要があるのかというと、我々が活動する環境自体がサイバーフィジカル社会に変わりつつあるからです。今までの身体だけでは、もはや不十分ではないか? 今後、私たちが自由自在に活躍するための新たな身体性の設計、そしてその限界は何なのかという点に興味を持っています。
具体的に1つ挙げるなら「身体拡張」です。非常に便利になるものはまだできていないのですが、6本目の指を作ったり、第3、第4の腕を作ったりして、今までの生身の身体ではできなかったことが、身体拡張というテクノロジーによってできるようになる。それだけで多くの方々が喜んでくれるようになります。不可能が可能になれば、それが大きな喜びとなって未来に希望が持てるようになるのではないでしょうか。シニアなど多くの方々に試してもらっているのですが、テクノロジーの力を使ったとしても、今日できないことが明日できるようになるということで、未来に対して非常にポジティブになられています。
VR環境で足先と連動する「余剰肢ロボットアーム」を開発
https://digital-shift.jp/flash_news/FN220628_8
バーチャルリアリティにおいて「第3・4の腕」の身体化に成功
https://www.keio.ac.jp/ja/press-releases/2022/6/28/28-125115/
例えば、物理世界を生きるのがハードだと感じる人に対してイージーモードの感覚のVR世界を作り、適切な成功や失敗を体験してもらう。ハードモードの物理世界で最初から失敗ばかりだと、心が折れて「二度とやるか!」となってしまいますが、イージーモードのVR世界で何回かに1回でも成功すると「次の成功までもうちょっとやってみよう」となるわけです。物理世界よりも早くスキルを身につけられるし、モチベーションも落ちません。研究テーマは、そのような将来への期待や心の問題にまで近づいています。
けん玉できた!VR
https://star.rcast.u-tokyo.ac.jp/kendama-dekita-vr/
人の能力は、それぞれのフィジカルに帰属しているわけではありません。人と環境、人と他者との相互作用が能力そのものなのです。要するに、能力は「間」にあるものだと言えるでしょう。
――身体のあり方について伺います。2040年の社会では、「人機一体」がスタンダードになるのか、それとも一部の限られた人々に留まるのか、どうお考えですか?
そもそも人類は、言葉や文字を使い始めた時点ですでにサイボーグであると言われています。人機一体そのものは、古くて新しい概念です。メールも自分で手書きしたものではありません。きれいに文字を書く能力がなくても、コンピューターの補助によって適切な文字どころか、予測変換まで出てきます。それは本当に当人だけが行ったものだと言えるのでしょうか? そういう意味では、我々自身はもう既に人機一体の始まりにいるわけです。
――稲見さんは、人間と機械が融合した「超人スポーツ」を提唱されています。また最近では、エンタメ領域でもAIと共にコンテンツを作ることが増えてきました。こういった「人機一体」がさらに進んでいくと、スポーツやエンタメのあり方はどう変わってくると予想しますか?
新しいジャンルのスポーツは出てくると思います。現代のオリンピックでプレイされているスポーツですら、一般に広まったのは産業革命以降だと言われていますから。それ以前の時代では、人間の身体は資本でした。ほとんどの人にとって、身体を動かすことは生産のためだったわけです。
しかし、産業革命によって、多くの人々がエンタメのために身体を使えるようになった。これが、近代スポーツ普及のきっかけです。情報化によってeスポーツも誕生・発展してきましたから、これからは身体と機械の両方を使うスポーツもどんどん出てくると思います。人機一体といえば、鳥人間コンテストが元祖といえるでしょう。
エンタメに関しても、どんどん新しいものは生まれてきます。手書きとタイピングの例もそうですが、仕事で使われていた道具は今後もコンピューターに置き換わっていく。その置き換わったものが、新しいエンタメビジネスやスポーツ、ゲームとして広まっていくのではないでしょうか。
デジタル版「神の見えざる手」が必要になる
――現在、あらゆる人がマルチアイデンティティを持っている世の中になっています。今後メタバースがさらに普及した際、リアルとバーチャルにおいて、1人でいくつも身体を使い分ける「分身」のあり方はどのようになっていくのでしょうか?
平野啓一郎さんが「分人」という言い方をしていて、それに近いのですが、例えば、この場にインタビューを受ける私のアバターがいたら、それは私の分身と言えるかもしれません。しかし、そのアバターはみなさんと私の「間に生成された新しい人」だとも言えます。
先ほど「能力は身体ではなく間にあるものだ」という話をしましたが、その能力を身体に与えると、それ自体が「間人(かんじん)」になるのではないでしょうか。そちらのほうが、分身よりも先に来るのではないかと思っています。
ペルソナというものは、自分の複数の側面ということですよね。しかしそうではなく、自己ということ自体が統合されたイリュージョンであるかもしれないのです。それぞれのコミュニティとの間に人がいて、それを繋ぐノードとしての自己がある。「間人」間のコミュニケーションを取るために、「私」が存在するというイメージです。
今後、「間人」たちの整合性を取ることが大変になった時、アシストしてくれるのがコンピューターです。もしかすると、アイデンティティの主体がシステム側に置かれることにもなるかもしれません。
生身の人間だって、どこで何を話したかよく忘れてしまいます。私も自分の講義で、何度も同じ雑談をしてしまって落ち込んだことがあります。でも、ちゃんと設計された「間人」を作れるようになると、同じことを繰り返さなくなるかもしれません。
――今後バーチャル世界が主流になると、リアルの価値は変化していくと予想されます。その際、バーチャル世界だけで完結しても楽しいと思える人たちがどんどん出てくると思われますか?
物理とサイバーの対比は、現代社会における自然と都市の対比に近いと考えています。どちらが大切かと言われれば、どちらも大切です。ただ、自然の中を拠点にしたい人もいれば、都市を拠点としたい人もいるし、たまには都市に行きたい、自然を楽しみたいという人も存在し続けるわけです。ただ、メインの収入やコミュニケーションを考えると、今後は物理的な空間以上にサイバー空間が主体になっていくと予想します。今の自然と都市の関係と同じような感じですね。
サイバー空間と都市の違いとして、匿名性の有無が挙げられます。匿名性は都市の魅力の1つです。都市部では自分のことを知っている人がほとんどいない生活ができますが、地方の場合は周りの人たちがお互いを非常によく知っていたりする。そして、サイバー空間では地方以上に名寄せされてしまって、自由の担保が難しい。この辺りは、次の技術的チャレンジが必要になってくると考えています。
――確かに、いろんなことが便利になる一方で、全部そうなってしまうのは嫌だという思いもあります。その辺りはどう使い分ければいいのでしょうか?
閾値はありますよね。犯罪か否か、みたいな境目は。でも都市だって、犯罪が起きた場合はがんばって捜査しますし、バカなことを含めてある程度は自由に行動できる権利があってもいいはずです。
クレジットだけはきちんとやりとりして、IDのやりとりはしなくて済む技術体系をどう作るか。それを考えると、メタバースかフィジカルかという話ではなく、どう考えてもマルチバース(多元世界)になっていきます。
ただ、情報化がさらに進むと、残念ながら分断が起こってしまうんですよね。だから、それぞれの集団がそれぞれ目指すべきことをやっていても、いつの間にか価値の交換がなされていたり、お互いにとって利益になったりする、いわゆるアダム・スミスの「神の見えざる手」の焼き直しをデジタルで行う必要がある。それができてくると、マルチバースの世の中はきっとサステナブルになるのではないでしょうか。このあたりは、投機対象ではないブロックチェーンの技術をどう使っていくかにも繋がってきますね。
「自由意志」はもう古い?
――AIが人間や社会活動をサポートするようになってくると、人間は労働から解放されるのでは、という話もあります。そんな社会が到来した場合、人間は何をもって楽しく生きたり、幸せになったりするのでしょうか?
前提として、繋がりたいときに繋がることができて、なおかつ何らかの価値を交換できる世の中になっていくべきだと私は考えています。その価値交換によって、自分は世の中に必要とされていると認識できたり、誰かの役に立っていると思えたりする。その関係性は基本として残っていく一方、価値交換はいわゆるマネーを介するものとは限りません。
生存に必要な衣食住、今だと電気やWi-Fiもそうですが、社会全体として維持しなければならない要素は、今後もテクノロジーでサポートできるでしょう。+αのチャレンジや楽しみについては、テクノロジーのサポートを必要に応じて得ながら多くの人々を包摂していくことで、結果的に社会全体の文化資本を高める方向に行くのではないかと思っています。
――民間でのメタバース研究は見られますが、国全体としてはどうでしょうか? フィジカル空間のセンサーから膨大な情報がサイバー空間に集積していく「Society5.0」をやっていこうと言いつつも、なかなか進んでいないように思えるのですが。
国と言われている組織の意思決定の仕方も、また変わっていくのでしょうね。国民の命や生活を守るという基本的な役割は変わらないとして、それが今までの国と同じ形でそのまま続けられるかどうか、そこはわかりません。
あえてナイーブなことを言いますと、自由意志に基づく投票は民主主義の一丁目一番地ですが、そもそも自由意志というもの自体が古い概念という気がしています。現在の認識では、自分というものは全て意識できる存在であって、その意識に基づいた決定に人は責任を持たなければいけないとされています。しかし、合理的に意思決定をする主体のまま、人の意思決定が絶対であるという約束をどこまで続けて良いものなのでしょうか?
それこそ、タイムラインの操作など、人間がもつ無意識の部分に働きかけることによって行動を制御する技術は、今後もっと進んでいくはずです。無意識に働きかけられた本人は、それがどう誘導されているのかもわからないまま、あらゆる意思決定をすることになってしまう。どの部分に決定を委ねて、どの部分の集積をみんなの一般意思とするのか。これは今から議論しておく必要があるでしょう。
このような技術は、マスメディアで20世紀初頭にうまくいったこともあれば、逆にそれが仇となって戦争が起こってしまったこともあります。しかも、これからは本人が意識しない状態のまま誘導されてしまう。暗黙的で目に付きづらいプロパガンダはどんどんやりやすくなりますし、今後はもっと巧妙化していくでしょう。
――先ほど稲見さんがお話しされた「間人」も含め、テクノロジーのサポートや自動化は人間の行動や認知にどのような影響を及ぼすのでしょうか?
スマートフォンでパシパシ時間を切り替えながらゲームをしたり、SNSを見たりするように、場合によっては「間人」も30分〜1時間くらいで切り替わるようになるかもしれません。一方、物理世界の時間については、1.5倍速で大学の講義を受けたり、複数の講義を一度に受けたりすることが可能になってきましたから、実質的な可処分時間は増えると見ています。
自己を拡張する条件の1つは、出入り可能になることです。例えば、ゲーム実況動画を見ながら、ふと自分もゲームをプレイしているような切り替えができたり、野球中継を見ながら、自分がそのバッターボックスやマウンドに立つような入れ替わりが起こったり。こういうことが可能になってくると、また違うメディアの楽しみ方が生まれるでしょうね。そういう移行期があると、自動化しているものも含めて自分の持ちものにだいぶ近づきます。
実は、自在化というものも、最初は身体の形を自由自在にできるくらいで捉えていました。でもいまは、まさに意識下の身体と無意識下の身体の境目を自由自在に変えられることのほうが、自在化における価値だったのだと思い至りました。
「間人」によって、人生の逃げ場を作る
――最後の質問です。2040年の世界において、メディアやコミュニケーションはどのようになっていると思われますか?
流行り廃りはあれども、いまあるメディアがなくなることはないでしょう。ただ、新しいメディアがどんどん生まれてくるのだろうとは思います。そして、メタメディアとしての特性を持つコンピューターやIT技術も、今後ますます発展していくのかな、と。
別の見方をすると、「間人」という概念こそがメディアであると言えるのではないでしょうか。ある程度、有限責任の「間人」がいくつか存在することによって、結果的に逃げ場のある生き方ができる、もしくはやり直しができるようになる。
結局、逃げ場がなくなってしまうから、人は世をはかなんでしまうこともあるわけですよね。一度でも何かやらかすと全体がダメになってしまうのは、本当に良くない。多様性や包摂性を確保するよりも、多元的な世界が全体の価値を高めるような制度を整えていくべきではないでしょうか。これは、現代社会のあまりにひどい分断に絶望した私の現時点における解です。
2021年12月6日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基
編集協力:有限会社ノオト
※掲載している情報/見解、研究員や執筆者の所属/経歴/肩書などは掲載当時のものです。