人々をつなぎ合わせる機能が希少財になる 社会学者・西田亮介氏が考える既存メディアを維持する重要性

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭におき、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

2040年に向けて、人々のつながりはどのように変化し、国家や社会の概念はどう変わっていくのでしょうか。公共政策、情報社会論を専門とする社会学者・西田亮介氏に、「公共」が向かう未来、政治参加のあり方について話を伺いました。

西田亮介(Ryosuke Nishida)
東京工業大学准教授
博士(政策・メディア)。専門は社会学。情報と政治、若者の政治参加、情報化と公共政策、自治体の情報発信とガバナンス、ジャーナリズム、無業社会等を研究。著書に『マーケティング化する民主主義』(イースト新書)、『メディアと自民党』(KADOKAWA)、『情報武装する政治』(KADOKAWA)など。

人々をつなぎ合わせる機能が、希少財になる

―人々は自分の好きな情報にだけ接していたいという意識が強くなっています。メタバースのような仮想空間の中で、自分の好きな世界にどっぷり没入し、そこで一日の大半を過ごしたり、日常の中にも別世界を持って暮らしたりすることが、今後は一般的になるかもしれません。メディアという観点から、こういった未来についてどう感じていますか?

インターネット登場以前、マスメディアは人々をつなぎ合わせる役割を担っていました。社会の問題について考えるときも、私たちはテレビの朝と夜のニュースを見たり、新聞の朝刊と夕刊に目を通したりした上で、一定の勉強をし議論を重ねてきました。

ところが、現在30代以下の人々は自分の好きな情報、多様化したコンテンツをそれぞれが見ている。つまり、共通のメディア体験が期待できなくなっているのです。良い面も悪い面もありますが、重要なのはこのような多様化は止められないことです。

――以前は、メディアを通じた共通言語が存在しましたね。

そうですね。私は30代後半ですが、学生時代は友達とドラマや音楽番組、アニメなどについて話したり、漫画を回し読みしたりしていました。そのため、メディアの共通体験を元にした「◯◯世代」といった区分や共通認識が確認できていた。

しかし、ネットが中心になると、何を見ているかは人によってさまざまです。同時代の最新コンテンツを見ている人もいれば、古い作品のアーカイブを見ている人もいる。「◯◯世代」といった区分も、マスメディアの共通体験をもつ今の30~40代あたり以降ではできなくなっていくでしょう。

そうなると、共通性を使ったコミュニケーションを取るのが難しくなっていくと考えられます。我々がネットを使わなくなり、皆が同じものを見る時代が戻ってくるとは考えにくいので、この流れは止められないと捉えるべきでしょう。

――ただ、世の中は好きなものだけで構成されているわけではなく、国家や社会をはじめとした「公共」という空間は存在し続けます。皆がどんどん分散化し、会話の共通の土台がなくなったら、何が起こるのでしょうか?

「公共」という言葉の意味が、変わらざるをえなくなると思います。これまで「公共性」とは、「多様性を尊重すること」だと考えられてきました。それは、多様性の分散の程度が小さかったから。つまり、多様ではない世の中だったからこそ、多様になることが希少で大事だとされてきたのです。

ですが、あまりに多様になってしまった時代においては、人々をつなぎ合わせる機能こそが希少財になり、重要になっていくと考えています。つまりそうした機能を「公共」として重要視するべきかもしれません。

投票率が50%を下回ると、政治は限られた「エリート」だけのゲームになる

――「公共」の概念が変わっていくときに、全国的な選挙や民主的な政治参加はどうなっていくと考えられますか?

現行の選挙制度では、とりあえず誰かが1票でも投票すれば、当選する人が出ますよね。すでに投票率の低下は起きていますが、今後投票率がゼロになるとは考えにくいので、選挙によって何かしらの決定は下されると思います。

ただし、選挙制度は国によってかなり違います。投票に行かないと罰金を払わなくてはいけない国がある一方で、日本の投票は権利的性質が強く、投票に行かなくても罰則がありません。確かに日本の投票率は低いですが、フランスやアメリカと比べると、必ずしも低いとも言えない状況です。

私が気になっているのは、過去と比べて投票率が落ちていることです。若い人たちの投票率低下はよく言われていますが、地方選挙では常態化し、国政選挙においても40代の投票率ですら50%を割り込むことがあります。低投票率は若い人たちだけの問題とはいえなくなりつつあるということです。

――50%という数字が重要なのでしょうか?

多数派が投票しているのか、していないのかという観点では、50%のラインでその違いが明確になるといえます。投票率が50%を超えていれば、かろうじて投票するのが当たり前で、例外的に棄権も認められていると言えますが、50%を割り込んでしまうと投票しないほうが普通。投票に行く人が特別に見えてしまいます。それがすでに40代で起きているのは気になります。

普通に考えると、40歳は社会の中で相当な大人です。そんな大人でも投票に行くことが珍しい行為になっているとすれば、その子どもたちはどうなってしまうのか、ともいえそうです。選挙が成立しないというよりも、投票に行かないことが普通になり、投票に行くことが特別な行為になってしまうことで、ますます低投票率が続くという悪循環が生じないかが気になっています。

――投票に行く側が少数派になることで、どんな社会になっていくと推測されますか?

地方選挙では、すでに投票率30%台はざらにあります。投票する3割の人たちの中だけでゲームが行われている状況がもう起きているということです。選挙に行くのが政治と直接的な関係や利益がある人たちだけになれば、広く市民益なり国民益にかなう政治になる蓋然性は低くなるのではないでしょうか。

私自身は、選挙に参加する人が多く、多様であるほうがいいと思っています。政治家になる人の数は、いつの時代もごくごく少数です。でも、その政治的な「エリート」たちだけが関心を持ち、行政を執行していくのが好ましいことだとはまったく思いません。政治が限られた「エリート」だけのゲームになっていくことを懸念しています。

既存メディアの水準を維持することが大切

―多様な価値観は許した上で、最小限の「公共」「共通項」を持たないと、本当に個人主義的な社会になってしまいます。それが逆に、弱者にとって厳しい世の中になる可能性があることをどうやって皆で理解していけばいいのでしょうか?

例えば、義務教育や公共放送、今かろうじて多くの人が見ているものだと地上波など、多くの人が見る習慣を持っているメディアの役割は重要です。

インターネットの登場によって、テレビの視聴率が低下していることなども叫ばれていますよね。通常、旧技術が完全に代替された後で息を吹き返すことはほとんどありません。そう考えると、紙の新聞が紙のみでこの先残っていくのは難しいでしょうし、2010年代には部数も信頼性もありましたが、最近の各種調査では両方とも低下しています。

信頼されていないので読まれず、読まれないので信頼もされないという悪循環が生じているようにも見えます。もう紙の新聞は明確にポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてしまったと考えるべきです。でも、新聞社の経営陣はその現実を直視しないままでいます。だから、日経新聞を除いていまだにDXが遅れている。

紙の書籍のように古いテクノロジーが「生きながらえている」例はあります。出版市場はシュリンクしてきているといわれ、より便利で新しいツールやサービスがたくさん出てきているはずなのに、なぜか残っている。おそらく、新技術に完全にリプレイスメントされる前に生きながらえる手を打つことが大事なのでしょう。日本の新聞はそのポテンシャルをもちながら手放してしまいました。将来の成長市場を認識しながら優位性を活かせない典型的なイノベーターズ・ジレンマにみえます。

――環境が大きく変わる前に、先手を打たないといけないわけですね。

今ちょうど、地上波のテレビが瀬戸際にいるように見えます。分解してみると、まず日本の地上波の視聴体験はかなりユニークです。ネットの動画コンテンツと比べて、テロップの出し方などの番組の作り方も冗長的で、長時間見られるように作ってあります。一方で、YouTubeは刺激的といえますよね。音や見出しなどで「ここを見ろ!」と強調する。

言い方を変えると、ネット世代がネット的なコンテンツに慣れたら、つまりネットの文法をある種の身体言語にしてしまったら、地上波は見られなくなってしまうのではないかと考えています。実際、今の子どもたちはテレビとYouTubeを選べる場合に、ほとんど後者を選びます。

でも、今の我々の世代は良くも悪くも、日本の地上波的な身体言語のようなものを持っている。話は簡単です。「理屈はさておき、地上波のコンテンツをとにかくネットに出していけ」ということに尽きるのではないでしょうか。

しかも、見られる場所、YouTubeに早く出せということだと思います。ライブが難しければ、何時間か遅れてもいいから、とにかく地上波コンテンツを見る文法と身体言語を絶やさないことが大切です。地上波の身体言語が残っているうちに、もっと大胆かつ早急にデジタル化の手を打つべきです。地上波コンテンツを見る文法がなくなってしまうと、YouTubeに置き換わってしまうのではないでしょうか。

――音声コンテンツでも同じでしょうか? 例えば、ラジオ局がPodcastにコンテンツをどんどん提供することで、より聞かれる可能性はありますか?

はい、ありえると思います。多くの人が聞けるSpotifyやPodcastなどのプラットフォームがあるので、とにかくネットに上げていくことが大事です。

インターネットで目につきやすい、あるいはグローバルに開放されているプラットフォームに乗っかっていれば、海外からの目に留まる可能性もあるので。

ただし、それだけですでに存在する組織(人件費)や施設(家賃等固定費)を賄えるできるほどの売上をもたらせるかはかなり疑問です。デジタル化して、経営が顕著に好転したラジオ局はあまりありません。売上ベースでみれば、ラジオ局は基本的にかなり厳しい状況であることに大きな変化もありません。

従来メディアが行ってきた取材手法は今後ますます重要になる

―権力監視機能も担っている新聞社はじめ、従来型メディアはどのような形になっていくと思われますか?

新聞社の重要な役割は、ストレートニュースにあります。ストレートニュースは制作コストが高いと言われています。行政に24時間張りついて、そこから出てくること、出てこないことも含めて取材してきて、地域や全国に出していくのは非常に費用がかさみます。ノウハウも必要です。この分野は、ネットなど他の媒体の担い手も出てきません。新聞社とNHK、通信社を除くと、この分野に取り組む事業者はほとんどゼロに近いわけです。

なので、ストレートニュースのコストがかかる部分の担い手として、新聞社や通信社は存続していくべきなのですが、とても難しい状況です。

――これまで政治部の記者であれば、政治家との深い人間関係も構築しながら情報を取ってきていました。これからはよりフラットなデータや公開されているオープン情報に基づいて情報を得ていくのでしょうか?

取材の重要性は、これからも変わりません。その上で、公開されているデータを用いた分析も重要になってくるのではないでしょうか。

特に政治の場合は、機微情報と言われる人間同士の感性で成り立つものがあり、機械で代替して調査するのはとても難しい。おそらく不可能に近いでしょう。やはり人が取材に赴いたり、人間関係に入り込んだりして初めて分かることがあるはずです。

事件取材など、足で稼いで情報を得ることの価値は変わらないか、むしろもっと重要になっていくのではないかな、と。ですが、たくさんのデータが公開・生成されるようになると、そういったものの集計や再分析なども取材と合わせてさらに大切になっていくのだと思います。


2022年1月6日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 山本泰士
編集協力:矢内あや+有限会社ノオト

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