未来の人間は「生きているだけで生きていける」存在になる(かもしれない) SF作家・樋口恭介氏が語るメタバース時代の人間の価値

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭に置き、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

技術革新によりかつてはSFの世界でしか考えらえなかった現実がすぐそこまできています。私達はそんな未来をどう生きるべきなのでしょうか? SFからイノベーションを生み出す手法「SFプロトタイピング」の専門家でもあるSF作家・ITコンサルタントの樋口恭介さんに、未来のテクノロジーや社会の姿、人間の価値などについて話を伺いました。

樋口恭介(Kyosuke Higuchi)
SF作家、ITコンサルタント
2017年、『構造素子』で第5回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞し作家デビュー。ITコンサルタントとして勤務する傍ら、SFの社会実装をミッションとするAnon.IncでCSFO(Chief Sci-Fi Officer)を務める。2021年、SFプロトタイピングの活動をまとめた『未来は予測するものではなく創造するものである』を上梓し第4回八重洲本大賞を受賞。編著『異常論文』(早川書房)が『SFが読みたい!2022年版』の国内SFランキング第1位。その他の著書に『すべて名もなき未来』(晶文社)、『眼を開けたまま夢を見る』(KDP)、『生活の印象』(KDP)など。

SFからイノベーションを生み出す「SFプロトタイピング」で未来を創造する

――樋口さんはSF作家とITコンサルトという2つの活動をしています。この「二足のわらじ」に至った経緯や、いま取り組んでいるテーマを教えていただけますか?

高校生くらいの時から頭のどこかでぼんやりと物書きになれたらいいなと思っていました。しかし具体的な行動を起こしているわけではなかったので、当然小説家や批評家やライターとしてデビューできるわけもなく、なんとなく就職活動の時期になりました。周りがどんどん内定を決めていくなか、自分は物書き以外でどんな仕事をしようかと思ったとき、特にSFが好きだったので、仕方なく将来SFを書くのに役立ちそうなITコンサルタントとして働くことにしました。

実際働いてみると、SFとITコンサルティングは予想以上に近い営みで、未来について本気で考えクライアントに提案することと、SFについて考えることが同じだと思いました。そうした経験を経て、2017年にSF小説『構造素子』で作家デビューしました。働き始めて五年目くらいの頃ですね。就職した当初は二年か三年くらいで辞めようと思っていましたし、作家デビューなんてできたらすぐにでも辞める気だったのですが、その頃には会社での仕事も普通に楽しくなっていたので、特に辞めたり休んだりすることもなく、現在に至ります。

SF作家としてITコンサルタントの知見を話すこと、ITコンサルタントとしてSF作家の知見を話すこと。僕の中では同じ箱の中に入っていて、とても自然なことなのですが、この2つのことを同時に話すと、他人からは「変わっていますね」「おもしろい話ですね」と驚かれたり、時には怒られたりすることさえありました。

それで、「もしかしたらこういう思考が当たり前になると何かおもしろいことができるのかもしれない」とか、あるいはもっと単純に「自分に向けられている誤解を解きたい」「自分のことをもっと知ってほしい」と思い、深掘りして発信してみたいと考えるようになりました。その過程でSFというフィクションと実在する目の前の社会をつなぐテクノロジーについて調べていくうちに、僕の考えていることに近い「SFプロトタイピング」という手法があることを知りました。

SFプロトタイピングとは小説や映画や漫画などのフィクションを通して、未来像、ないしはもう1つの世界を提示することをきっかけに、未来の可能性を模索したり創造したりする手法です。SFプロトタイピングについて調査する過程で自分でも試しにやってみるようになり、そのおもしろさと効果がわかってきたので、2021年には、SFプロトタイピングを軸に自分の考えや経験をまとめた書籍『未来は予測するものではなく創造するもの』(筑摩書房)を執筆しました。

――予測するのではなく、未来を創造するという意味で大切に考えていることは何ですか?

一言で言うと、新しい単語を作ることです。それは、すなわち新しい概念を作ることですから。

例えば、「VR」は「バーチャル」と「リアリティ」の組み合わせですが、「リアリティ+○○」で新しい概念を作っていますよね。これが新しい世界観を生み出すきっかけになると感じています。さらに言えば「VR」を上書きする形で「メタバース」と言ってみること。これは「メタ(上位の)」と「バース(宇宙)」の組み合わせで、仮想現実よりも意味に広がりがあり、今後発展していくという時間性を内包しています。これによって、これまで自分にはVRは無関係だと思っていた人々も巻き込まれ、大きな流れが生み出されているのだと感じています。

サイボーグ実現のために必要なルールとトレーニング

――次のテーマですが、2040年には、人とロボットの融合、つまりサイボーグ的なものは実現していると思いますか?

僕たちはテクノロジーの助けを借りなければ今の生活を維持できないという意味では、サイボーグ化は既に実現されています。古いところでは靴や眼鏡も身体拡張デバイスだと言えますし、スマートフォンやウェアラブルデバイスにはAIが搭載されていて、何かを教えてくれたり何かの手続きを代わりにしてくれたり何かの行動を促してくれますから、明確にロボットであり、そのロボットがいなければこれまで当たり前にできていたことができなくなるという意味では、ロボットとの融合は既に始まっていると思います。

現在の延長線上にある未来を予測するとすれば、あとはもっとUIの直感性が上がり、身体とデバイスの融合レベルが上がっていくということではないでしょうか。最近も、服型のウェアラブルデバイスが登場しました。センサーになっている繊維が筋肉の代わりの役割を果たし、重いものを持てる、いわゆる「パワードスーツ」なのですが、軽量化によって直感性を増しており、服として普段使いされる方向に発展しています。

2040年にはデバイスの軽量化に加え、極小化や仮想化、デバイス自体の環境化も進んでおり、ユーザーはハードウェアの存在を意識しなくなっている可能性が高く、今よりもずっとサイボーグ感は増していると思います。現在語られているような工場や手術現場における細やかなロボットの遠隔操作も実現できているでしょう。

メタバース時代に注目すべき3タイプの人間像

――未来では、人はメタバースとリアルで複数のアイデンティティを持つと考えられています。そのとき、人は複数の自己を楽しんでいるのでしょうか、それとも新たな悩みが増えているのでしょうか?

メタバース時代の人間像は、大きく3タイプに分かれると考えられます。

1つ目は、今までリアルワールドが当たり前だったのが、急にメタバースメインで生きることになるタイプ。このタイプはアイデンティティが大きく二分される苦しみに加えて、「みんなの当たり前についていけない」辛さがあると思います。仕事で急にメタバースを使わないといけなくなり、これまで蓄積してきたスキルやナレッジが活用できなくなったり、家族や友人関係で当たり前にメタバースが使われているのに、自分だけうまく使えずコミュニケーションが円滑にできなくなったりする、というようなことが起きると思います。

2つ目は仕事も生活も趣味の世界もすべてがメタバース前提で、メタバースの中に自分そのものがあるタイプ。メタバースネイティブですね。公私の全てがメタバースにある暮らしとは、自分が依拠するアイデンティティ自体がメタバースの中にあるということです。さらに、アイデンティティはメタバース内の様々なコンテンツのチャネルごとにバラバラになっており、それを当然と捉えている。チャネルごとに違う自分で過ごすため、統合的な自意識はあまりなくなっていくのではないかと思います。

3つ目はメタバースネイティブでありながら、リアルな仕事や生活圏もあって、私的空間と公的空間が分断されているタイプです。

メタバースネイティブは、チャネル別に自分が変わることを当然だと認識しています。しかし、人間が物理的な存在である以上、リアルワールドからは逃れられません。高校生や大学生くらいまでメタバースでバラバラの生を生きるのが当たり前だった人が、就職や結婚をきっかけに今までの人生から離れて、ずっと同じアイデンティティを求められる現実を目の当たりにする。一日の大半の時間を一つの役割に縛り付けられ、逃げ場がない。技術的には自由にでき、自由になれるはずのところで、現実的にはできない。このギャップは、結構苦しいのではないかと思います。

――2つ目のタイプで出た「チャネルごとに違う時間軸の中で違う自分で過ごす」ということはどういうことですか?

チャネルごとに時間の流れが違うコミュニティがあり、そのとき行きたいチャネルに入っていくというイメージです。チャネルごとに違う自分を持つとは、1つの意識の中で複数のペルソナを持っていること。Twitterで複数のアカウント持っている人と同じです。3つの中では、このタイプが一番幸せを感じやすいのではないでしょうか。

――メタバース時代の分断は、国や趣味、年代以上に様々な階層やチャネルごとに生まれるイメージでしょうか?

世代間の軋轢は昔からありますよね。今までも「テレビばかり見て」「ゲームばかりやったらバカになる」「SNSなんて怖い人ばかりいて、犯罪に巻き込まれる」と、新しいものが登場するたびに親世代との軋轢が常に起こっています。

また分断で言えば、今のSNSでも「○○クラスタ」「○○民」など、複数アカウントをまとめて一つの党派性を共有した集団として名指すことで、味方と敵を分けたりしていますよね。メタバースではそういうクラスタリングがさらに細かい単位で起こり、「○○というアイテムを持っているアカウント」「○○というチャネルに出入りしているアカウントの別アカウント」というようなレッテルの貼り合いが行われるようになると思います。

メタバースは、Web3といったパッケージングでブロックチェーンとの融合がよく叫ばれていますが、もしもそれが実現され、ブロックチェーンによってすべてのアクションが記録され、管理され、来歴がつぶさにたどれるようになると、これまで以上にそういうトラブルは増えていくのではないでしょうか。

今後は、例えば、『どうぶつの森』でゲットしたアイテムやコインを、ClusterやVR Chatなどの別サービスでも手続きなしで(裏で手続が走って)使えるようになるといったように、サービス間の接続が進んでいくと思いますが、そうなってくると、もはやそれはサービスというよりも公共空間と呼んだほうが適切になります。

現在目指されているメタバースとは、現実の公共空間を超える公共空間なのだと思います。公共空間が生まれると、今まで村の中にこもっていた人々が、一気に可視化されて交流する。つまり、文化間のゾーニングが解除されることを意味します。ゾーニングの解除は新たな軋轢を生み出します。すると、「その格好は何とか村の格好だから敵」というような差別が起こってくるのです。

そういう諍いに耐えたり、調整したりするのが法の役割ではあるのですが、これまでのITサービスと法の関係を見ると、サービス発展の速度に法整備が追いつくことはないと思います。そこで、「やっぱり村にこもろうよ」という動きが出たり、AIが自動的に判断して出会わないようにする事前ゾーニングサービスが生まれたりするかもしれません。

あるいは、あまりに急速に法整備が進み「メタバース上でこういう表現や行動をするのはやめましょう、違反者は何年以下の懲役」というような強権的な規制が入る可能性もあり、それはそれで問題だということで、別の議論を巻き起こし、別のサービスが生まれるような気もします。

おそらくメタバースは、これまでの巨大掲示板やSNSの特性をより強化するものです。別の人生を生きるチャネルが細かく増え、ユーザーは自分の人生から解放され、自由の感覚を得る一方で、いじめや差別や誹謗中傷の問題も細分化され、頻度は上がり、総量としては大きくなるわけです。

このような広がりと閉じこもりの間で、どこが人間にとって最適なのかという線の引き直しは何度も行われるでしょう。それは従前通り法の形をとることもあれば、新たなサービスの形をとるということもあるのではないでしょうか。情報技術は資本主義と親和性が高く、資本主義とは差異化の原理ですから、サービスをもって法にとって変わろうとする傾向が強いように思えます。

人間が生み出すデータそのものに価値が生まれる

――メタバースが広まっていった20年後、リアルの価値はどうなると思いますか?

20年後だと、まだリアルのほうに価値があると思います。メタバースネイティブ世代よりもプレメタバース世代のほうが多く、プレメタバース世代の五感情報をすべて満足させられるほど解像度の高いサービスが展開されているとはあまり思えないからです。

例えば、視覚や聴覚のメタバース上での再現は進んでいますが、味覚や匂いなどを再現するデバイスは費用対効果の観点から浸透するのは厳しいような気もします。そういうのが欲しいかと言われると、そうでもないような気がしてニーズも怪しいですし、普通に料理を作ったり香料を調合したりするほうがコストは小さいと思います。

2040年でも、五感が重要なパーティーなどは、リアルで会ってリアルな料理を囲んだりするほうがメタバースネイティブ世代にとっても楽しいのではないでしょうか。

――クリエイティビティについてはどうでしょうか? 例えば、AIによる創作など、未来ではAIのクリエイティビティは人間を超えてしまうのでしょうか?

そもそも、比較をする必要はないと僕は思っています。小説も絵も音楽も、人間ができることはAIもできるようになると思います。これは、20年後と言わずとも2、3年後には当たり前になっているのではないでしょうか。

それについてどう考えればよいか。例えば僕は作家で、僕のような作家は日本中にたくさんいます。ニーズだけ考えれば僕が小説を書く必要性はまったくありません。でも、それは僕が小説を書くことをやめる理由にはなりません。未来にはAIの作家が何千何万何億と出てくるでしょうが、同様にそれも人間が書くことをやめる理由にはならないのではないでしょうか。AIはAIの小説を書き、他の人はその人の小説を書き、僕は僕の小説を勝手に書く。そのうちの何がどれだけ読まれるかはわからない。それだけのことで、その原理はこれまでと変わらないと思います。

――人間は創作分野で生計を立てられるのでしょうか?

生計を立てるのはこれまで以上に難しくなると思います。生産者は爆発的に増える一方で、消費者は増えないからです。AIが生成するコンテンツはコストがかかっていないので、様々な場所で無償提供されるでしょう。そうなると、お金がない人、単に暇つぶししたい人はAIによる無料コンテンツで可処分時間を費やしていくため、コンテンツにはいま以上にお金を使わなくなります。そうなると人間が何かをクリエイトすることによって、対価を得るシステムは崩れ、多くのクリエイターはジリ貧になっていくでしょう。

メタバース空間内だけで活動するクリエイターというのが生まれてくると、それはこれまでのクリエイターのようにコンテンツを売るというビジネスモデルにはならないと思います。物理空間におけるエッセンシャルワーカーや細かい危険な作業は人間にしかできないので別ですが、メタバース空間ではAIのほうが人間より正確に効率的に迅速に最適解をアウトプットしやすいはずなので、人間が何かの価値を発揮することは難しいと思います。

――では、未来の人間はどうやって生活していくのでしょうか?

AIはデータがないと成長できません。ですから、人間が生み出すデータの価値がより高まると考えられます。そうなってくると、メタバース以降のクリエイターは、食いつないでいく手段として、AIに学習モデルを提供するだけのコンテンツを生産する、というような仕事をしている可能性もあるかもしれないですね。人間の消費者は増えないのですが、生産者であるAIを同時に消費者としても位置づけて、AIを提供している企業にコンテンツへのアクセス権を売るというようなビジネスモデルです。

人類は様々な膨大なコンテンツを作成し蓄積してきましたし、その営みは今後も変わらないと思いますが、黙っているとAIを運営する企業やプラットフォームを作る会社に全部無料でとられてしまう。だから、クリエイターは自分のコンテンツのアクセス権に対しては、自覚的に積極的に、これは学習データとして金になるのだというような動きをしていったほうがいいかもしれないですね。

そして学習データとして価値があるのはもちろんコンテンツだけではなく、メタバース内でのあらゆる行動履歴が同様であるはずなので、メタバース以降の世界ではあらゆる人が自分たちの行動すべてに価値があると自覚したほうがいいと思います。ログインしてから何分でどこのワールドで誰とどんな会話をしたとか、どんな漫画の何コマ目で読むのをやめたか、メタバース内のクラブでどんな人たちがどんな曲で盛り上がったかとか、そういうデータすべてがメタバース環境にとっては経済価値のあるものです。

そう考えていくと、人間は、生きているだけでお金をもらえるようにしないといけないですね。メタバースの中で生きる以上は、生きているだけで生きていけるようにせよ、と、そういう主張をしていってもいいのではないでしょうか。

――逆に、リアルワールドにおける公的な活動、社会貢献的な活動の価値が評価される可能性はありますか?

そうですね。ただ、リアルを選ぶのは非常に少数派にはなると思います。メタバースはかかるコストに対して娯楽性と刺激が強く、依存性が高くなるようにAIによって高度に空間設計されてくると思うので、一度メタバースにハマった人々が抜け出すのはどんどん難しくなると思います。

そこでビジネスが行われ、生活基盤までできてくると、確実にメタバースメインになってくるでしょうね。ここから先はただの妄想ですが、コンテンツを発表してAIに学習させることでお金がもらえ、ただ存在して行動履歴データを明け渡すだけでお金になるとわかると、皆、メタバースをユートピアだと感じるようになるでしょう。

――最後に、2040年のメディアやコミュニケーションはどう変化していくか、あるいはどうなって欲しいと思いますか?

レコメンデーションがさらに進み、感情に合わせて「あなたは今、このコンテンツを消費したほうがいいよ」というターゲティング広告が盛んになっていると思います。そしてそのとき、広告は広告の姿をしていないでしょう。あたかも素朴なコミュニケーションであるかのように、広告は何気ないやりとりの中に織り込まれるようになっていると思います。このワールドにいると、俺が好きなものばかりが得られてうれしいな、居心地いいな、みたいな感じになるのではないでしょうか。

それがいいことか悪いことかで言うと、僕は悪いと思います。単純におもしろくないからです。個人的にはターゲティング広告のアルゴリズムがあらかじめ選択できるようになっていると嬉しいですね。たとえば悲しい気分のとき、デフォルトでは「あなたは悲しい気持ちだから、こういう泣ける映画を見るといいよ」という最適解が表示されるでしょう。それだけでなく、精度がその真ん中くらい、あるいはまったく気分に合わない恐怖心を煽る映画や笑いを巻き起こす映画がレコメンドされるなど、抱いている感情に対して正反対のコンテンツが表示されるように、アルゴリズムのオプションが選べるといいと思います。

Amazonで「この本を買った人はこの本も買っています」というレコメンデーションがありますが、反対に自分が全然読まない本と出会えると楽しいな、とよく思います。コンテンツとの出会いの面白さは、そういうランダム性にあると思うのです。ランダム性の表現を広告やメディアがやってくれると嬉しいですね。

広告で言うと、僕は古い人間なのでテレビのCMが好きですね。テレビCMはもちろんクズも多いのですが、クズの中にもマーケティング的に意味のわからないものもあったりして、おもしろいと感じる確率が高いように思います。テレビCMはクリエイティビティとマーケティングの瀬戸際をずっとやっているではないですか。これは商品を売るためというよりも、クリエイターの単なる自己満だろうというようなCMもたくさんありますよね。そういう「このCMすごいな」とか「このCM、何なの?」というものに急に偶然に出合えるので、テレビのCMはけっこう好きです。

今後の話ですが、視聴覚型のメタバースの次は脳波コミュニケーションサービスが一般化に向けてローンチされ始めると思います。その頃には、脳波を解析して、脳波に合わせたコンテンツをレコメンドしたり、脳波からコンテンツをリアルタイムに生成したりすることが可能になっていると思います。そうなってくると、準備がないと本当に最悪なことになるので、アクセス権の議論やアルゴリズムの選択可能性などの議論がより必要になってくると思います。真面目に、いまからでも始めるべきでしょうね。


2022年1月11日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基
編集協力:沢井メグ+有限会社ノオト

※掲載している情報/見解、研究員や執筆者の所属/経歴/肩書などは掲載当時のものです。