能もVRも観客を甘やかしてはいけない 能楽師・安田登氏が期待する「人の能力」の引き出し方

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所は、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を洞察することを通して、メディア環境の未来の姿を研究しています。少子化・超高齢化社会が到来する中、本プロジェクトは現在各地で開発が進められているテクノロジーの盛衰が明らかになるであろう2040年を念頭におき、各分野の有識者が考え、実現を目指す未来の姿についてインタビューを重ねてきました。

伝統文化の視点から未来を捉えると、何が見えてくるのでしょうか。VRやARと身体性の探求にも関わる能楽師の安田登さんに、2040年におけるメタバースのあり方や身体性との関わり、パーソナリティの変化について伺いました。

安田 登(Noboru Yasuda)
下掛宝生流能楽師(ワキ方)
高校で国語教師を務めていた25歳の頃に能と出合い、27歳で鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、能の考え方を用いた作品の創作や演出、能ワークショップなどを行う。また、『論語』等を学ぶ寺子屋「遊学塾」を主宰し、全国各地で出張寺子屋も行っている。NHK 100分de名著『平家物語』講師・朗読。著書に、『見えないものを探す旅――旅と能と古典』(亜紀書房)、『三流のすすめ』(ミシマ社)、『能に学ぶ身体技法』(ベースボールマガジン社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』(春秋社)、『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)など多数。現在、関西大学総合情報学部特任教授。

「歌枕」には過去と未来が圧縮されている

――現在の興味・関心領域や取り組みについて教えて下さい。

VRやAR(MR)などのXRを使って、日本の文化をより深く紹介するものを作れないかと考えています。そのために、いま教えに行っている関西大学の学生たちと、「京都VR」や「京都AR」のための企画を作っています。

きっかけは海外の文化人たちとの交流でした。海外で能などの公演をすると、著名な文化人たちが観に来てくれます。しかし、彼らがいうには、日本文化に興味を持って日本へ行くとがっかりすることが多いらしいのです。「日本庭園や寺院に行っても、その説明が書いてある立て看板にすら表層的なことしか書いてない。結局、クールジャパンとは何だ?」と。

それならば、彼らを納得させるもの、さらには「日本文化はこんなに奥が深いんだ」と驚かせるものを作りたいと思ったのがきっかけです。そこでまず手始めに、いま教えに行っている関西大学からも近い「京都」から手を考え始めています。

また、東京都にある「六義園」という庭園のAR(MR)も作ってみたいと思っています。

そのためのキーワードでは「歌枕」です。

「歌枕」とは歌に関係する地名、名所旧跡です。「歌枕」の「枕(まくら)」とは本来は「ま(真)」の「くら(蔵)」、真実の蔵を言います。祭礼の夜に神霊を招き、それを「まくら」に格納します。そして、それに巫女などが頭を乗せて眠ると、神霊は巫祝に憑り移って神の言葉を語る。そのための装置が枕でした。

「歌枕」の枕にも似たような意味合いがあります。和歌に関する神霊や、あるいは記憶の格納蔵としての地が「歌枕」なのです。

例えば「芥川」という歌枕(大阪府高槻市)があります。ここは『伊勢物語』の芥川の段の舞台となった土地です。ここには『伊勢物語』や、それに関連する歌の記憶が眠っています。それを知っている人が高槻を通って『伊勢物語』の和歌を口ずさむと、その人の脳裏には『伊勢物語』の物語が絵巻物のように広がっていく。芥川という「歌枕」は物語を圧縮した装置で、それを知る人によって解凍されるのを待っています。

さらに、その人が歌人ならばさらに和歌を詠む。するとその人が詠んだ和歌が『伊勢物語』の和歌に重なり、次に通過した人がそれを知ってまた歌を詠む……。それを繰り返していくと、芥川にはさまざまな歌人の記憶が重層的に圧縮されていきます。「歌枕」とは古人の記憶の圧縮装置なのです。そして、それは次の旅人によって解凍されるのを待っている。

そんな「歌枕」が日本全国にあるのですが、特に京都や大和あたりの関西にはたくさんあります。

この圧縮と解凍の作業にはAR(MR)的な面白さがあります。「いまは昔」といいますが、まさに過去は今にあり、未来もまた今にある。

また、いわゆる2Dや3D的なものではない、京都VRや京都ARも考えてみたいと思っています。例えば、東寺の立体曼荼羅を読み解くと、抽象的なものが立ち現れてきます。その抽象をさらに具体化して読み解くことによって、さらなる抽象に引き寄せられる。これが日本のすごいところです。普通のARだと具体だけになってしまう。どうすれば、このようなものが作れるか、それはまだ試行錯誤の途中です。

これを考えるヒントは、私がしている能にあります。能を初めて見た人の大半は「わからない」と思います。能楽師はわざと半分ほどしか情報を見せない。そこには「これを知りたかったら、あなたたちがここに来なさい」というメッセージが込められています。「自分には理解できない」と思った観客は、そこで諦める人もいます。しかし、さらに学んで修練しようと考える人がいます。前者に与えられる芸能は他律(ヘテロノミー)の芸能。ハリウッドの映画などがそうですね。しかし、能は自律(オートノミー)の芸能です。自律的な芸能は、その人が進歩すればするほど面白くなる。

能は観客を甘やかさない。それはその人を信じているからです。ARやVRも、すべてを提示するのではなく、ユーザーを甘やかさないことが大事なのだと思っています。

――安田さんはVRにも深い造詣をお持ちです。現在は、VRに関してどのような研究をされているのでしょうか?

まず、VRカウンセリングです。精神科へ行くハードルって高いですよね。でも、VRを使ったら行くのが楽になる。特に家を出ることすらままならないような本当に重篤な人にとって、すごく役立つ技術だと思います。

同時通訳機を用いたら、日本にいる患者さんがチューリッヒのユング研究所の人にカウンセリングをしてもらうこともできるようになるかもしれません。それをVR空間内で実現するために、今は実験を重ねているところです。

研究会には精神科医と臨床心理士がいるので、臨床心理士的なカウンセリングをした方がいいのか、精神科医的な薬を出した方がいいのかと、そういうこともやっています。

――今のお話は精神性の部分が強いと思いますが、一方でVR内の身体性についてはどうお考えですか?

おそらく、これから注目される分野だと思います。2021年にイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーという劇団がモーションキャプチャー技術を使った「真夏の夜の夢」を上演しました。観客に見えているのは3DCGですが、後ろでは演者が実際に動いている。この作品はVRでもPCでも見られました。

かつて3DCGの会社を作ったのですが、1990年代にはすでにモーションキャプチャーに取り組んでいました。例えば、「天誅」という忍者ゲームの忍者は、モーションキャプチャーで僕が動いています。

ゲーム内のキャラに空を飛ばせるとき、ただCG処理をするだけだと機械的な動きになってしまってつまらない。プログラミングすると完璧に空を飛びますが、人間の動きをキャプチャーした場合は揺らぎが生まれます。実際に人間が動くと、上手に飛べない。その揺らぎや制限が面白いのです。むしろ制限を見たときに、初めてそこに人間性を感じることができる。人間として飛んでいるなという感覚です。

揺らぎをプログラミングしても面白くありません。完全に身体性のないプログラミングで作られた動きと、フルトラッキングして作られた動きとの差は、はっきりわかると思います。

これに関しては、VR空間内で能をするメタバース能の実験もしています。来年には英語の字幕をつけて公開しようとも思っています。

VRは身体から離れるのではなく、逆に身体の可能性を引き出す

――映画などでメタバースの世界が描かれることもありますが、そこに身体性も加わってくるとどうなるのでしょうか?

「身体」と「身体性」とは分けて考えるべきだと思います。メタバースにおいても身体は重要ですが、逆にメタバースによって身体から自由になる可能性もある。僕たちは何かをしようとするとき、身体の制限によってそれを止めてしまう心理的なブレーキがかかることがあります。VRはそのブレーキを外し、その人本来の能力を発揮させることができます。例えば、「けん玉」をVRで練習すると、ほとんどの人ができるようになります。これは「失敗」の記憶が身体に刻み付けられないからです。

ワークショップをするのですが、身体の硬い人、前屈して下に手がつかない人、これを柔らかくするのです。VRでわりと一瞬で、ほとんどの人の身体は下につくようになります。

そうやって、持っている身体の可能性を引き出すという点において、VRやARはすごく役に立ちます。これは「身体」を超えた身体、身体性のもつ可能性を引き出します。

それともう1つ、人間のパーソナルスペースについて考えてみましょう。僕たちは皮膚の内側の部分を身体だと感じています。しかし、実は「人から侵入されると嫌なスペース」までが、自分の身体である可能性があるのです。満員電車が嫌なのは、そういったパーソナルスペースに他人が入ってくるからです。そうすると、人が自分の身体を閉じてしまう。そして、満員電車の中だけではなく、そのまま社会に行っても閉じたままになってしまいます。

しかし、能楽師は能舞台全体を自分の身体の延長と考えています。この感覚を、VRを使って味わう。自分の身体をバーっと拡張する。ひょっとしたら宇宙全体に自分の姿を拡張することだってできるかもしれない。日本人の身体を縛っているもののひとつに「世間様」があります。自分を制限する漠然とした目、それが世間様です。自分の身体の拡張は、そこからも自由になり、もっと自由な身体、身体性を手に入れることができるかもしれない。これが日本人のリラクゼーションにつながるのだと思います。

――メタバースはいくらでも受動的に楽しめてしまいますが、能動的になっていけばますます楽しみや可能性が広がってくると思います。今後は、どちらの方向性に進んでいくのでしょうか?

能動的というのは先ほどお話した自律的と関連するのですが、いまはそれが難しい時代になっている気がします。学生たちに「貧困問題についてどう思う?」と尋ねてみたら、あまり気にしていない学生も多かったのです。自分の周りに貧困の人がいないから、と。むろん、貧困のことを真剣に考えて、何とかしようとしている学生もいます。つまり、二極化しているのですが、前者は想像力が欠如しているだけでなく、自分から世界を変えていこうという能動性も弱くなっています。

これは映画でもテレビでもYouTubeなどでも相手から与えられるもの、すなわち他律的なものが多くなっているからでしょう。他律的なものは早晩飽きられます。例えば無声映画がトーキーになり、カラーになり、3Dになり4Dになり……と映画の技術が進化していく中で、お客さんはどんどん新しいものを望むようになる。人間の性質として、最初は「有り難い」と思っていたものを「当たり前」と思うようになり、さらには「もっと」となり、最後は「恨む」へ変わるというものがあります。映画だって「つまらない」と捨てられる可能性がある。

メタバースもそうです。VRも、売るためにどんどん面白いもの、フォトリアリスティックなものを出していこうとしています。しかし、そうすると見ている人も「もっともっと面白いものを」「もっとすごいものを」となっていき、あるときに飽きられてしまう可能性があります。

能が650年も続いているのは、やはりそちらに行かなかったからだと思います。お客さん側が自律性を発動し、こちらに来るのを待っていました。だから、「そこまでいかないVR」などが出てくると、すごく面白いでしょうね。そのためにはまず「選ばれた人向けのVR」を作ってもいいと思います。マスを狙わないというか、何かを考える余地を残しておくイメージです。

学生たちと作っている「京都VR」、「京都AR」は、例えばレヴィ=ストロースやアンジェイワイダ監督のような方が見て、「日本は面白い!」と言ってくれるようなVR、ARを目標にしています。わかりやすいもの、やりすぎているものはむしろ嫌がります。そんなものを作りたいと思っています。

日本人が日本語文法を採り入れたプログラム言語を作ったら面白い

――メタバース開発において、日本と世界にはどのような違いがあると思われますか?

日本のゲームは、世界と違う発達をしたことによって人気が出たのではないかと思います。

例えば80年代、90年代にアメリカで作られたウォークスルーゲームは、進んで行くと敵と出会って撃ち合いをするというようなシューティングゲームが主流でした。しかし、日本ではむしろ歩き回ることそのものが重要なRPGゲームを開発していました。ドラゴンクエストなどですね。アメリカ人の友人からは「何が面白いのか」と言われていましたが、ドラゴンクエストに代表されるRPGはVRゲームでも人気です。

そもそも(その中にいる人物の視点で自由に動き回ることができる)ウォークスルーゲームを開発することは、西洋人はあまり得意ではないのかもしれません。それは東西の庭園の違いからも言えます。例えばヴェルサイユ宮殿やヴィランドリー城の庭などは上から見ると美しいというように作られています。幾何学的で俯瞰的な庭です。それに対して日本の庭園は歩いて回ることが前提となっているウォークスルー型の庭です。山があり、池があり、浮かぶ島があり、さまざまな仕掛けがあり、それらを巡って想像しながら楽しむための場です。

駒込にある「六義園」などは、そこに立てられている石柱を読み解いて、和歌の浦(和歌山県)や吉野山(奈良県)の歌枕をその庭の景色に重ねるというARの庭です。その石柱が八十八あり、それらを巡って脳内ARを訓練するための場でした。

このウォークスルー的な思考は、新たな検索エンジンの開発にも活かせるのではないでしょうか。インターネットで何かを買うと「あなたが興味のあるものはこれですと」と提示されたり、メールが来たりしますが、逆に「あなたが興味のないものはこちら」と提示されることは絶対にありません。しかし、興味のあるものはいつか出会います。興味のないものと出会って、それが自分のクオリアとも接触したときに自己の変革やイノベーションは起きる。むろん、ランダムはダメです。クオリアとの接触が起きにくい。リアルではあるでしょう。そんなことが。しかし、そのような検索エンジンはまだありません。

なぜできないかというと、プログラム言語が英語だからではないでしょうか。プログラム言語では「If文」がよく使われます。例えば「明日、雨だったら、遠足は中止だ」と言うときには、英語ではIfやwhenを使って、これは従属節だと明確にしなければならない。しかし、日本語では「明日、雨」までの部分を聞いただけでは、従属節か主節かわからないわけです。例えば、これを言おうとして、相手の顔が曇ったら「明日、雨なんか降るわけないよね」と変えることができます。その場でどんどん変えていける柔軟性がウォークスルー型の特徴なのです。

これはプログラム自体に自律性を持たせるということです。プログラムが走りながら、自分で自分のプログラミングを書き換えて行く、そんな自律的なプログラムを書くためにはウォークスルー的な日本語的なプログラミング言語の開発が必要なのではないでしょうか。日本人が日本語を大事にしながら、新しいプログラミング言語を作る。むろん、日本語といっても日本語そのものを使う必要はなく、文法的な問題だけを採り入れて作ればいいと思っています。

サブ・パーソナリティを束ねる「指揮者」の養育が必要

――バーチャル世界とフィジカル世界を行き来するようになったら、複数のパーソナリティを使い分けると思います。それらは全く独立したものなのか、それとも統合されている部分もあるのか。パーソナリティのあり方、変化の方向性についてどのようにお考えですか?

イタリアの精神科医にロベルト・アサジョーリという人がいて、彼が「サブ・パーソナリティ」という概念を提唱しています。本当の自分などはいず、さまざまな人格、サブ・パーソナリティが人の中にはいるという考え方です。ユングと同時代の人ですが、彼はフロイトやユングと違い、イタリアの人なので明るい。深層意識などという人間の暗い面ばかり見ず、明るい面にも目を向けようという「サイコシンセシス」という心理療法を開発しました。その中でまず行うのが、自分の中のたくさんのサブ・パーソナリティを探すことです。

上司に出す自分、友達に出す自分、家族に出す自分……。それらの様々な自分は全てサブ・パーソナリティ。そして、指揮者のような存在もいて、「この人のときはこの自分(サブパーソナリティ)を出しなさい」と指示する。だから、指揮者をちゃんと養育することが大事になります。

「シンセシス」は「統合」と訳されますが、「統合」には「インテグレーション」という単語もあります。しかし、この2つのニュアンスは少し違っていて。インテグレーションには、X²がX³に次元を1つ上げる「積分」という意味もあり、次元が変わるというようなイメージがあります。シンセシスはそれとは違い、色々なものが重なっていくことを意味します。

孔子が大事にしている「和」という考え方があります。昔は「龢」と書かれました。これは色々な楽器が色々な音を出しながら調和している状態をあらわす文字です。その反対語が「同」、これは皆が同じ音を出すという意味です。孔子は、君子は「和」するが、小人は「同」すると言いました。「アイデンティティ」という考え方は、自己を同一化するという点で「同」だと言えます。しかし、サブ・パーソナリティのシンセシスは「和(龢)」です。色々な自分がいて、そして、それらが調和している。メタバース時代には、それが大事になるでしょう。

――最後に、2040年のメディアやコミュニケーションはどのようになっていると思われますか?

まず基本的に、ARのガジェットはコンタクトレンズ型が主流になるのではないでしょうか。今は、ナノコンピュータといって塩の結晶サイズくらいのコンピューターもありますし、それらがさらに開発されていけばコンタクトレンズにすごいPCが入ることになる。フルトラッキングも今よりもっと簡単になり、身体性はさらに大事になります。

僕も今65歳ですが、これから高齢者が増えます。そうなったときにデジタルは更に重要になってくると思っています。体が動かなくなっても、脳だけで動かせる「ブレインマシンインターフェース」もどんどん進んでいくでしょう。シャーロックホームズが座っていながら事件を解決するように、そこにいながらいろいろなことができる。漂泊の旅だってできる「定住漂泊」もさらに可能になってきます。

むろん、それは身体性を持っている人が使っても面白い。そこにいながら漂泊の旅もできるし、実際にリアルな場へ足を運ぶこともできる。だから二極分化せず、何でもありになるのではないかと思います。


2021年12月6日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永 直基
編集協力:有限会社ノオト

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