非合理な選択をするのが、人間の最後の役割 社会学者・西田亮介氏が考えるAI時代の価値基準

博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所では、テクノロジーの発展が生活者や社会経済に及ぼす影響を踏まえ、2040年に訪れる未来の姿を予測すべく、各分野の有識者にインタビューを重ねてきました。

公共政策・情報社会論を専門とする社会学者・西田亮介さんに、2022年8月にこれからの公共、政治参加のあり方やメディアの役割について話を伺いました。 

人々をつなぎ合わせる機能が希少財になる 社会学者・西田亮介氏が考える既存メディアを維持する重要性
https://mekanken.com/contents/2459/

しかしながら、AIやメタバースが想像を超えるスピードで進化しはじめている昨今、改めて私たちはAIとどのように付き合っていけばよいのか、メディアや情報、コンテンツとどのように関わっていくべきなのかという問いをアップデートする必要を感じています。今後のメディアのあり方、AI時代における人間の価値やその基準、さらには家族や公共組織のあり方について、今回2023年3月に西田さんにより深くお話しいただきました。

西田 亮介(Ryosuke Nishida)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院/環境・社会理工学院准教授
博士(政策・メディア)。専門は社会学。情報と政治、若者の政治参加、情報化と公共政策、自治体の情報発信とガバナンス、ジャーナリズム、無業社会等を研究。著書に『マーケティング化する民主主義』(イースト新書)、『メディアと自民党』(KADOKAWA)、『情報武装する政治』(KADOKAWA)、『「2030年日本」のストーリー: 武器としての社会科学・歴史・イベント(共著、東洋経済新報社)』など。

雑多な情報は選別され、良質なコンテンツだけが生き残る

――今後、メディアのあり方はどうなっていくと思いますか?

インターネットやSNSが誕生して、AIも身近になってきました。この流れの中で、情報量が増えていくことはこれからも基本的に変わらないはずです。

今まで、「人間の認知能力や情報処理能力は大量の情報に対してはかなり限定的である」という見立てを持っていました。すでに存在し、流通している情報に対して我々の認知能力では到底追いつけなくなっています。なにかについて検索してみたところで、すでに最初の1ページ目に掲載されるサイトすらすべて見るなどということはなくなっているのではないでしょうか。それどころか若い世代は検索サイトを検索しなくなりつつあるなんていう話も聞きます。

要するに、我々は既にブラウザやリコメンデーションなどを介して、世界に存在する大量の情報のなかから、機械的に情報量を人間の認知の範囲に収まるように制限しながら活用しています。ChatGPTをはじめとする生成AIのもっとも素朴な使い方は検索の拡張であり、人間の認知の拡大です。

特にBingやGoogleのBardのように新しいネット情報を学習しているサービスを通じて、おそらくはこれまでとは違うスケールで人間の認知が、しかも多くの人が容易に拡張できるということがとても重要です。新しいデバイスを購入する必要もなく、したがって新規の高額なハードウェアや通信回線を普及させることなく、追加コストをほとんど払うことなく、誰でも手元のPCやスマートフォンからログインすれば即使えます。

これはデバイスやソフト(OS)、高速回線の普及が必要だった過去のICTの変化やスマートフォンの普及過程と比べても稀有なことです。人間の情報収集能力は社会経済的成功や学力のようなものと密接に結びついていますが、その凹凸を底上げしながらこれまでより平準しうるかもしれません。世界的な生成AIのインパクトのあまり注目されていない背景ではないでしょうか。

ところでAIはデタラメな情報を生成しているときもありますが、チューニングのたびに精度の高い情報を吐き出すようになっていますし、Bingは偽情報の製造をかなりシビアに拒否するなど社会とのチューニングの速度も速いです。多くのちゃんとしたメディア研究者たちは生成AIに対して、大量の偽情報に晒される危険性を指摘します。

ぼくも半分は同意しますが、もう半分はあえて反論してみたい。というのも、前述のように、すでに我々は大量の認知しきれない偽情報や悪意ある情報に晒されています。すでに水道からコップに注ぐ水が溢れ続けているところに、さらに大量の偽情報を増やしたところで著しい変化があるでしょうか。

もしかすると現状が酷すぎて、多くの人は地震や災害などに直面してちゃんとした情報がほしいときにはNHKを見に行きますが、NHKがこれまでどおり仕事をし続けてくれるなら、それでだいたい事足りてしまうという状況にはあまり変化がないかもしれない。むしろ情報の収集ツールとしての生成AIは現状を変えてくれないのではないでしょうか。

要はこうです。これまでは人間が能動的にキーワードを通じて検索を行い、少なくとも検索結果の1ページくらいのなかかから「それらしい情報」を探していました。ここが自動化され、いっそう要約が進むとみなすなら、くだらない情報がだいたいAIによってスクリーニングされ、潜在的なニーズも含めて「私たちユーザーが求めるのはこれだ」と提案をしてくれる日が来るのかもしれない。

そうするとSNSの時代だった過去20年の間で忘れられかけていた、良質なコンテンツこそが生き残る時代が戻ってくるのではないでしょうか。まあ逆張り的にだいぶ楽観的な見方ですが(笑)。

――専門家や公的機関が発信するような質の高いコンテンツを作っていけば、AIが自動的に選別してくれるというイメージでしょうか?

そうですね。あくまで希望的観測ですが、先ほど述べたように生成AI技術が発展するなら、いままではマネタイズが困難だと言われていた、職人的な高い専門性を持った情報の価値が見直されていくかもしれません。アウトリーチや発信より、やっぱり良質なコンテンツだ、と。どうでしょうかね。

SNSの登場後は「良いものを出しても届かなければ意味がない」と言われてきましたが、人間の認知容量と検索する能力、コストというか要するに手間に限界がありました。これだけ朝から晩までネットの情報に接する時代に、ネットから我々が目にする情報すべてをきちんと裏取りするなんてことできませんよね。

ところがAIが「まともそうなURL」中心に、情報を集めてきて検索結果ページではなく、数行程度でまとめて提示してくれるようになって、検索すらしなくなる。AIの精度はどんどん上がって、より洗練されていくというようなイメージでしょうか。かくして良いものを作り続けていればいつか発掘される可能性がある状況に戻る日が来るかもしれません。

先程、Bingが偽情報の生成を拒否するといった「サービスの味付け」の話をしました。これはおそらくはデータを生成する過程に、偽情報の生成といった反社会的な行為を防ぐメカニズムが組み込まれていると推論できます。ぼくが調べた時点では、同じ質問で他社の生成AIサービスでは偽情報を「はい、喜んで」と生成してくれました。

だとすると、Microsoft社が社会を混乱させたり、反社会的だったり倫理規範に抵触する回答を拒否するようにデザインしている印象です。こうしたファインチューニングが生成AIの社会的な受容過程にとってとても重要に思えます。

――その流れで、フィルターバブルの問題も解決に向かう可能性はありますか? 

人間は認知能力の限界や好みの問題から自分固有の嗜好性に収斂して、フィルターバブルに陥りがちです。機械はそうはならないかもしれない。

――そういうとき、人間は「AIは中立的に両方を見てくれる存在」だと思えるのでしょうか。それとも、敵対する相手のように捉えてしまうのでしょうか?

いつも使っているチャットボットやアカウントの発言、あるいはアニメに登場するパーソナルアシスタントロボットのような存在ならば、私たちはおそらく味方だと信じるようになるのではないでしょうか。

むしろ、生成AIを疑うことがとても難しくなっていくと思います。もしかしたら批判的な思考すら誤差みたいなものになってくるのかもしれません。

合理的な回答の中から、人間的な選択をすることで差を付ける 

――AIが新しい良質なコンテンツを探してくれる時代で、メディア業界で新しいビジネスモデルは出現すると思いますか?

先ほど言ったように、「良いものを作っていればいつか日の目を見る」という希望的観測がある一方で、メディアのビジネスモデル自体が崩壊する可能性もあると見ています。情報自体がリーズナブルになっていく中で、さらにAIの精度が上がって解説も自動でつけてくれるようになると、既存のメディアはマネタイズすることが困難になり駆逐されていくでしょう。

その反面、AIによって人間が速報記事を書く必要がなくなり、作業が効率化されると、記者はもっとドロドロした人間関係がないと聞き出せない世界に集中できるとも捉えられます。でも、これってジャーナリズムの先祖返り的ですよね?

ある記者には話してくれるけれど、ある記者には話してくれない取材対象者がいる。そこに理屈はなくて、それこそ古典的な食い込み方が有利に働いている場合があります。こういうことはこれからも人間にしかできないでしょう。

――バラエティやエンタテインメント領域ではいかがでしょうか。人間は何に価値を見出していくのでしょうか?

人間的な選択が、差別化における最後のスパイスになっていくのではないでしょうか。それぞれのユーザーの状況に応じた最適な解は、直ちにチャットボットが生成し、合理的な回答を用意してくれる。いくつかのパターンで回答が返ってくることがありえる中、人間に残されているのは刈り込まれた選択肢のなかかから実際に選ぶことです。

人間が心地よいと思うものには、あまり理屈がありません。たとえば音楽の好みでいうと、ロックが好きなやつがいて、テクノが好きなやつがいて、アイドルが好きなやつがいて、というようになっていくけど、これはあまり合理的な選択ではないはずです。でも、いつの間にかそのジャンルが好きになっていっている。理由を聞いても、ほとんどたまたまなはずで、好みとかセンス以外の何者でもなくなっていくと思います。

――たしかにAIが示す合理的な選択だけを取ると、全員が同じ答えを選ぶことになってしまいます。その中で、人間は好き、心地良い、実際に体験した、といった個人的な感覚や経験を大切にするのかもしれません。

人間が心地よいと思うものは偶然や個性であって、あまり理屈はないんじゃないでしょうか。AIのおかげで、ある世界の歴史を理解するのが格段に早くなるので、何かのオタクになることが容易になります。

だからこそ、なかなか上手にならないものに価値が生まれる。簡単にできることは大事ではなくなっていくのです。運動やDIYなどフィジカルを使って経験を積み重ねていく行為はとても時間がかかるので、希少性が増していくのかもしれません。

――AIは絵を描いたり、音楽を作ったり、文章を書いたりすることはできても、実際に人が身体を動かす領域は簡単に再現できないということですね。

先日、カットのために美容院に行ったのですが、もう少し先の未来には、頭の形をスキャンして「あなたに最適な髪型はABCのいずれかです」といったように、いくつかパターンを提示してくれるようになる気がします。たとえば、1,000円カットを売りにしている店ではこれが普及する。

しかし同時に、ゆっくりと人間の美容師とお話ししながら髪を切ってもらうのを好む人たちもいるかもしれません。値段が高かったり、ちょっと変な切り残しがあったりもするかもしれないけれど、それこそが味なんだ、と。

AI時代は使い手のリテラシー格差がなくなっていく

――AIが発展した未来において、公共の分野はどうなっていくと考えていますか?

前述のように、逆張り的に、WEB 2.0やSNSの時代よりも楽観的な見立てでいます。これからの社会では、AIが偽情報や誤情報を弾き、それらが存在しても目につきにくくなる。その結果、フィルターバブルによって認識が偏るリスクやアテンションエコノミーによって不要な情報にさらされ続けるリスクが下がり、相対的に質の高い情報に接する可能性があるではないか、と。どうですかねえ……。

――広告のように、企業が売りたいものの情報はどうなっていくと思いますか?

極論を言うと、チャットボットが自分にとって有用な情報だけをまとめるようになって、人々がそれを活用するようになると、広告は見られなくなる可能性が高いと思っています。コンテンツと広告のシームレスな融合が進みそうです。

もっと言うと、10年、20年すると検索は必要なくなり、ブラウザもなくなっているかもしれません。人間が思いついたキーワードで検索するより有用そうですよね。

――AIは広く世の中に入ってくると思いますが、そのとき人によってAIの使い方にリテラシーの差は発生するのでしょうか?

メディアの理論における「知識ギャップ仮説」が解消される可能性があるのではないかと考えています。

知識ギャップ仮説とは、大まかにいえばスマホやパソコンといった新技術やサービスの登場で世の中の情報格差というのは埋まるのではないかと期待されたものの、現実には情報処理能力の高い人が生産性の高いツールを使いこなしていき、そうではない人が置いていかれるので、結局のところ知識のギャップが開いていくという身も蓋もない理論です。

情報収集ツールとしての生成AIは、情報処理能力や認知能力などのパフォーマンスがイマイチな人に対するほど有利に働くのではないでしょうか。レバレッジが効くというべきか。楽観的にいえば知識のギャップがようやく狭まっていくのかもしれない。人間の頭の回転の速さが意味を持たなくなっていく可能性はあるでしょう。

――そうなると、ホワイトカラーの人こそが現在の職を失っていくこともありえますよね。その中で、どういうことに幸福や生きがいを見出していくのでしょうか?

一度きりのもの、アナログなもの、確率的な事象、間違え……。そういったものの価値が高くなっていくのではないでしょうか。

いよいよ人間はパターンが決まっている事務職から解放され、ホワイトカラー的な仕事をやる必要がない社会になっていくと思います。そうなると、人間はやっぱり人間的な営業をするのではないでしょうか。どぶ板営業や飲みニュケーションかもしれません。なんだか復古的ですが、他にもなにか、人間にしかできないことにビジネスのリソースが投入される日がくるのではないかと考えています。

非合理的な判断が人間的な社会を保つ

――ある程度のコミュニケーションや関係性はAIに代替されて、それだけで満足してしまう人たちも出てくるかもしれません。

固有性があれば、人間は人間ではないものにも思い入れを感じられるはずです。ペット型ロボットに愛着を感じてお葬式をする人がいるくらいなので。

我々世代の晩年にはおそらくは介護需要をまかなえるほどの人間の労働者がいないので、介護施設で老人の話し相手をするのもAIになると思います。Zoomでの会議に違和感を持たなくなったように、AIと話すのもそれほど遠くないうちにかなりシームレスになっていくのではないでしょうか。温かみはないかもしれませんが、認知症などで同じ話を延々と繰り返したとしても、嫌な顔ひとつせず、反応してくれるでしょう。ぼく自身が迎える老後のイメージでもあります。

一方で、人間は総じて希少性を愛で、お金を払う傾向にあります。高性能なAIが普及してリーズナブルになるのであれば、人間と話せることが贅沢であり、付加価値になっていく。先ほどの美容院の例のように、お金を払って介護施設でリアルな人間と話すことを選ぶ人も出てくるでしょう。

――メタバース中で暮らす人はもっと増えていくと思いますか?

そうですね。いつの間にか私たちが1日中スマホを眺めるようになったのと同じで、VRもさらにリーズナブルになっていけば、朝から晩までその世界に入り浸る人も出てくるでしょう。まだ少々高額ですが。

現実の世界は花粉が飛んできますが、オンラインの世界にはおそらく花粉はない、あるいはコントロールできそうなのでとても快適な気がします。人間は利便性や快適さに大変弱い生物です。メタバースが快適で、便利でリーズナブルになリ、仕事があれば、そこで日がな生活する人も増えるでしょう。ほら、我々はなんだかんだで日がなスマートフォンを眺めているじゃないですか。

――バーチャルの世界が当たり前になったとき、家族のあり方は変化するのでしょうか?

パートナーとパートナーとの関係性という意味での家族のあり方は変わると思います。ただ、実際の子育てにおいては、あまり変えようがないかもしれません。子どもに何歳から端末を渡すかと関係するのでしょうし、日本の場合は学校でスマホを利用しないように制限しています。

結局、そういう状況が続く限り、子どもは親からの影響を受けざるをえない。だから、子育てをする共同体という意味での家族は、そんなに変わらないのではないかと思います。

――多くの情報を集めて整理する学習能力の高い人たち、ある種のエリートが集まる日本の組織の一つとして官僚機構があります。こういった行政組織がAIに代替される可能性はあると思いますか?

その可能性はあるかもしれません。政策のためのエビデンス収集などはAIを活用してどんどん効率的になっていくでしょう。しかし、やはり人間的な判断は必要で、政治にせよ行政にせよ、人間を排除できないし、現行憲法もそれを認めません。

また、政治家はある意味で様々な利益や業界のエージェントです。つまり、政策をごり押しする主体として必要なのではないでしょうか。別に今でもそこらかしこで合理的な政策が走っているわけではなく、非合理的であるからこそ、未来永劫国民の代表として存在し続けるようにも思います。それで良いのではないでしょうか。

私たちはAIに自分が代表されているなどという感覚をなかなか持てないので、AIに投票することも起きないし、今後もそういう日が来るとも思えません。非合理的なものの象徴として政治家と国会があり、人間的な社会を保ち続けるのではないでしょうか。そして、それこそが人間であることの最後の役割なのかもしれません。


2023年3月16日インタビュー実施
聞き手:メディア環境研究所 冨永直基、山本泰士
編集協力:矢内あや+有限会社ノオト

※掲載している情報/見解、研究員や執筆者の所属/経歴/肩書などは掲載当時のものです。